フランス社会党
成立の背景
フランスの第三共和政期には、急速な産業化と都市化が進み、労働運動や社会主義運動が広がった。とくにドレフュス事件やブーランジェ事件、パナマ事件などの政治スキャンダルは共和政の脆さと支配層の腐敗を明らかにし、社会主義勢力の結集を促した。こうした状況のもとで、分立していた社会主義諸党派を統一しようとする動きが強まり、1905年にフランス社会党(SFIO)が結成されたのである。
結成と組織の特徴
フランス社会党は、ジュール・ゲード派やジャン・ジョレス派など、これまで対立していた諸潮流を統合して生まれた政党である。党名の正式名称は「フランス労働者インターナショナル部」であり、第2インターナショナルに加盟する社会主義政党として国際的な連帯を重視した。党組織は支部・連合・全国大会という階層構造をとり、地方の労働者や知識人が参加する大衆政党として発展した。議会活動だけでなく、労働組合や協同組合との連携を通じて社会主義運動の拠点となった点に特徴がある。
思想と綱領
フランス社会党の綱領は、資本主義社会における階級対立を前提とし、生産手段の社会的所有と民主的な政治制度のもとでの社会主義への漸進的移行を掲げた。理論的にはマルクス主義の影響が強かったが、議会制民主主義の枠内で改革を積み重ねる路線をとり、急進的革命を否定する傾向が強かった。フランスの労働運動には、直接行動を重視するサンディカリズムも存在したが、党はこれと一定の距離を保ちつつ協力関係を模索した。また、反軍国主義・反植民地主義を掲げ、民族問題や反ユダヤ主義への批判にも積極的に取り組んだ点に特徴がある。
第三共和政期の活動
第三共和政下でフランス社会党は、議会における重要な勢力として台頭した。とくにジャン・ジョレスは穏健で民主的な社会主義を主張し、共和政の擁護と社会改革の推進を両立させようとした。政権運営では、ブルジョワ共和主義を代表する急進社会党と協力し、教育の世俗化や社会保険制度の整備などを進めた。一方で、第一次世界大戦が勃発すると、多くの党指導部は「神聖同盟」に参加し、自国政府への協力を選択したため、従来の国際主義的立場とのあいだに緊張と矛盾が生じた。
戦間期と人民戦線
第一次世界大戦後、ロシア革命の影響のもとで党内は路線対立を深め、1920年のトゥール大会では共産主義インターナショナルへの加盟をめぐって分裂が起こった。その結果、多数派は共産党に転じ、残った少数派が従来型の社会民主主義政党としてフランス社会党を維持した。1930年代に入ると、ファシズムの台頭に対抗するため、同党は共産党や急進派と協力し、1936年の人民戦線内閣を成立させる。この内閣では週40時間労働制や有給休暇の導入など、労働者保護を中心とする社会改革が実施され、ヨーロッパにおける福祉国家形成の先駆的事例と評価されることになった。
戦後の再編と現代への継承
第二次世界大戦後、フランス社会党はレジスタンスの経験を背景に再建され、第4共和政の主要政党の1つとして政権に参加した。しかし植民地問題や経済政策をめぐる対立から支持基盤が揺らぎ、冷戦構造の中で共産党との競合も強まった。1960年代末には党勢が低迷し、1969年に新たな社会党が結成されると、歴史的なフランス社会党は事実上これに吸収される形で現代のフランス社会党へと継承された。この新しい社会党は、ミッテラン政権のもとで福祉国家政策やヨーロッパ統合を推進し、他国の社会民主主義政党やロイド=ジョージ以来の社会改革の潮流と並んで、20世紀後半の欧州政治に大きな影響を与えた。
国際的文脈のなかのフランス社会党
フランス社会党の歴史は、国際社会主義運動の展開とも密接に結びついている。第2インターナショナルに参加した同党は、各国の社会民主主義政党と連携しつつ、戦争と民族問題への対応をめぐってたびたび論争を経験した。とくに反ユダヤ主義やシオニズムをめぐる議論、帝国主義政策への批判などは、フランス国内の政治問題であると同時に国際的な論点でもあった。このようにフランス社会党は、フランス政治史だけでなく、ヨーロッパの社会主義・民主主義の歩みを理解するうえでも重要な位置を占めている。