フィリピン=アメリカ戦争
フィリピン=アメリカ戦争は、スペイン支配からの解放をめざしたフィリピンの独立運動が、今度はアメリカ合衆国とのあいだで武力衝突に発展した戦争である。スペイン=アメリカ戦争後、パリ条約によってフィリピンはスペインからアメリカに譲渡されたが、すでに独立を掲げていたフィリピン側はこれを受け入れず、主にエミリオ=アギナルド率いるフィリピン第一共和国とアメリカ軍が衝突した。戦争は形式上は1902年まで続き、正規戦から激しいゲリラ戦へと性格を変えながら、多数の戦死者と民間人犠牲者を生み、フィリピンにおけるアメリカ植民地支配の出発点となった。
スペイン植民地支配とフィリピン革命の継続
フィリピンは16世紀以来、スペインの植民地として統治されてきた。19世紀後半には、ホセ=リサールら啓蒙的知識人や秘密結社カティプーナンの活動によって民族意識が高まり、1896年にフィリピン革命が勃発した。この革命は、植民地行政への不満と社会的不平等、宗教会の支配などへの反発を背景としていた。やがてアギナルドが指導権を握り、独立国家の樹立をめざす運動へと発展していくが、その最中に起こったのがスペイン=アメリカ戦争であり、フィリピン情勢は列強間の対立とも結びつくことになった。
スペイン=アメリカ戦争とパリ条約
1898年、キューバ問題を契機にスペイン=アメリカ戦争が起こると、アメリカはアジアにおける拠点を求めてフィリピンにも出兵した。マニラ湾海戦でアメリカ艦隊がスペイン艦隊を撃破すると、フィリピンの独立勢力もアメリカを一時的な協力者とみなして連携し、アギナルドは亡命先から帰国して独立運動を再組織した。しかし戦争を終結させたパリ条約で、スペインはフィリピンの主権をアメリカへ譲渡し、フィリピン側の独立要求は無視された。アメリカはフィリピンを新たな太平洋進出の拠点とみなし、統治権を主張したため、両者の対立は決定的となった。
マロロス共和国とアメリカとの対立
アギナルドらは1899年、マロロス憲法を制定してフィリピン第一共和国を樹立し、自らを大統領に選出した。この共和国は主権国家としての承認を国際社会に求めたが、アメリカはフィリピンを「文明化」し保護するという名目で、自国による統治を正当化した。アメリカの「ベネヴォレント=アシミレーション(慈悲深い同化)」政策は、教育やインフラ整備を強調しつつも、実際には軍事占領と植民地支配を前提としており、フィリピン側はこれを独立の否定と受け取った。こうしてフィリピン=アメリカ戦争は、独立国家を自認するフィリピンと新興帝国主義国家アメリカのあいだの戦争として始まったのである。
開戦と正規戦の段階
1899年2月、マニラ近郊での小競り合いをきっかけに全面戦争が勃発すると、当初はフィリピン側も正規軍を編成してアメリカ軍と戦った。フィリピンは地の利を生かし、各地で抵抗を続けたが、兵器や補給、兵員の面で圧倒的優位に立つアメリカ軍は次第に優勢となる。主要都市や交通の要衝を制圧され、マロロスをはじめとする拠点が陥落すると、フィリピン第一共和国政府は内陸部へと退きながら継戦を図った。しかし、統一的な戦線維持は困難となり、戦争は次第にゲリラ戦の様相を強めていった。
ゲリラ戦への移行と住民への影響
正規戦で劣勢となったフィリピン側は、各地の指導者の下でゲリラ戦に移行した。山地や島々を利用した奇襲、攪乱、通信線の切断など、小規模部隊による継続的な攻撃が行われ、アメリカ軍は完全な制圧に苦しんだ。これに対してアメリカ軍は、ゲリラ支援を断つ名目で住民の強制移住や収容所政策、村の焼き討ちなど苛烈な対ゲリラ作戦を展開し、多くの民間人が犠牲となった。飢餓や疫病も広がり、犠牲者数は戦闘員にとどまらず住民にまで及んだ点で、フィリピン=アメリカ戦争は「独立戦争」であると同時に「住民戦争」の性格を帯びていたと評価される。
アギナルドの捕縛と戦争の終結
1901年、アギナルドがアメリカ軍の作戦によって捕縛され、アメリカへの忠誠と戦闘終結を呼びかける宣言を出すと、全国的な抵抗は大きく動揺した。指導者不在となった各地のゲリラはなおも戦闘を続けたが、徐々に鎮圧されていき、アメリカは1902年に戦争終結を宣言した。ただし南部ミンダナオやスールー諸島のイスラーム勢力との武力衝突はその後も継続し、フィリピン全域の統治が安定するには長い時間を要した。こうしてアメリカの植民地支配が本格化し、フィリピンは形式的な独立を回復するまで、およそ半世紀にわたりアメリカの強い影響下に置かれることとなった。
アメリカ植民地支配と独立への道
戦後、アメリカはフィリピンに民政を導入し、英語教育や地方自治制度、議会制の導入などを進めた。一方で、重要産業や関税、外交権はアメリカが握り、政治エリート層との協調によって支配体制を維持した。やがてアメリカ国内でも帝国主義政策への批判が強まり、フィリピンの将来的独立を認める方向へと転換すると、ジョーンズ法やテュディングス=マクダフィー法を経て、最終的に1946年のフィリピン独立へとつながっていく。こうした過程は、フィリピン=アメリカ戦争が単なる一時的な武力衝突ではなく、その後の国家形成やアメリカ=フィリピン関係の枠組みを規定した重要な転換点であったことを示している。
歴史的意義と評価
フィリピン=アメリカ戦争は、アジアにおける帝国主義拡大と、それに抗する民族自決運動が正面から衝突した事例として位置づけられる。フィリピン側にとっては、スペイン支配からの解放に続いて、アメリカ支配にも抵抗した「連続した独立戦争」であり、多大な犠牲を払いながらも民族国家形成の意志を示した戦争であった。他方、アメリカ側にとっては、本国の民主主義理念と植民地統治との矛盾を露呈させる契機となり、国内で帝国主義批判や対外政策をめぐる論争を生んだ。今日、この戦争は植民地主義とナショナリズム、そして大国と小国の関係を考えるうえで欠かせない歴史的事件として研究され続けている。