ピータールー事件
概説
ピータールー事件は、1819年8月16日にイングランド北西部の工業都市マンチェスターで起こった民衆集会への武力弾圧事件である。選挙権拡大と議会改革を求めてセント・ピーターズ・フィールドに集まった数万の人々に対し、地元騎兵隊と軍隊が突撃し、多数の死傷者を出した。この出来事は、ナポレオン戦争の勝利を記念するワーテルローの戦いに皮肉を込めて「Peterloo」と呼ばれ、19世紀イギリスの民主化運動と労働者階級の政治参加を象徴する転換点となった。ピータールー事件は、その残虐性ゆえに当時から激しい批判を浴び、後の議会改革や労働運動の重要な契機として記憶されている。
歴史的背景―産業革命と戦後不況
ピータールー事件の背景には、18世紀後半以降の産業革命による経済構造の変化と、ナポレオン戦争後の深刻な不況があった。綿工業を中心に工場制工業が発展するなかで、多くの農民や手工業者が都市へ流入し、賃金労働者として工場に雇われた。しかし景気の変動は激しく、戦後には失業や賃金低下が広がり、物価高も重なって生活は不安定になった。こうした状況は、賃上げ要求や労働問題の激化を生み、政治的な救済や制度改革を求める声が強まっていったのである。
政治制度と代表制の歪み
当時のイギリス議会は、人口の増加と都市化の進展に対応しておらず、工業都市の代表は著しく不足していた。人口が急増した資本主義の新興工業都市では多くの労働者と市民が暮らしていたにもかかわらず、選挙区の配分は旧来のままで、いわゆる「腐敗選挙区」が温存されていた。選挙権も土地所有に基づく制限が厳しく、労働者階級にはほとんど与えられていなかった。このため、物価高や失業に苦しむ人々が議会を通じて自らの利害を代表する術は乏しく、平和的な集会と請願によって改革を求める運動が広がっていった。
改革運動と集会の準備
ピータールー事件に至る改革運動を主導したのは、急進派の政治家やジャーナリスト、そして新興市民層であった。彼らは新聞やパンフレットを通じ、普通選挙や議会制度の見直しを訴えた。1819年夏、著名な急進派演説家ヘンリー・ハントを招き、大規模な平和的集会を開く計画が進められた。この集会には農村部から家族連れで参加する人々も多く、旗や音楽を伴う「祝祭」のような雰囲気をめざして組織され、暴力行為を避けるための規律もあらかじめ確認されていたとされる。
集会当日の様子と武力弾圧
1819年8月16日、セント・ピーターズ・フィールドには6万から8万ともいわれる人々が集まった。女性や子どもも含まれたこの群衆は、秩序正しく整列し、改革を求めるスローガンを掲げていた。しかし地元当局は、この集会を治安上の脅威とみなし、逮捕命令を出すとともに騎兵隊に解散を指示した。騎兵隊が群衆の中へ突入すると、逃げ場を失った人々は踏みつけられ、剣や棍棒による暴力で多数が負傷し、十数名が死亡した。平和的な政治集会が突然の武力で解散させられたこの光景こそがピータールー事件である。
政府の対応と抑圧政策
ピータールー事件後、政府は暴力を非難されるどころか、治安維持の正当な措置であったと主張した。急進派指導者たちは逮捕・投獄され、多くの新聞が政府批判の記事によって起訴された。同時に政府は、集会や出版の自由を大きく制限する六法(Six Acts)と呼ばれる一連の法律を制定し、政治運動の抑え込みを図った。これは既に存在していた団結禁止法などとともに、労働者や市民の政治的結社や言論を締め付ける法的枠組みを強化するものであり、国家権力と社会運動の対立をいっそう深める結果となった。
労働運動・社会運動への影響
ピータールー事件は、多くの労働者に深い衝撃と怒りを与えた。綿工業地帯では、すでに賃金低下や失業に反発するラダイト運動や機械うちこわし運動が起きていたが、この事件を契機に、暴力的な破壊活動よりも政治的改革を求める運動へと重心を移す傾向が強まったとされる。やがて19世紀前半には、普通選挙と社会的権利を掲げるチャーティスト運動が展開され、その土台にはピータールー事件の記憶と、国家による弾圧への反発があったと解される。
労働組合と議会改革への道
ピータールー事件後も抑圧は続いたが、経済発展と都市の拡大は止まらず、やがて労働者や職人たちは合法・非合法の形で労働組合を組織し始めた。1820年代以降、政府は過度な弾圧がかえって社会不安を招くことを認識し、段階的に結社規制を緩和していく。同時に、人口の増加した都市に議席を配分し直す必要性も高まり、1832年の第1回選挙法改正につながった。この改革は限定的なものであったが、工業都市の代表拡大という点で、ピータールー事件以来の要求に部分的に応えたものと位置づけられる。
記憶と歴史的評価
ピータールー事件は、19世紀を通じて急進派や改革派によって語り継がれ、20世紀以降の歴史学でもイギリス民主主義の形成過程における重要な事件として扱われている。ワーテルローの勝利が帝国の栄光を象徴するなら、ピータールーは民衆の犠牲の上に築かれた「影の記念碑」として理解されるようになったのである。今日では、事件の現場となった都市空間の歴史や、当時の新聞・パンフレットに残された証言を通じて、労働問題と政治的権利の関係、そして国家権力と市民社会の力学を考える上で欠かせない事例とされている。