ピサロ
ピサロは、16世紀前半にインカ帝国を征服したスペインのコンキスタドールである。スペイン王権拡大とアメリカ大陸の植民地化を象徴する人物であり、その行動は莫大な富をヨーロッパにもたらす一方、アンデス世界の政治秩序と社会構造を破壊した。征服と暴力、キリスト教布教と王権の名の下に行われた支配という性格を持ち、その評価は近代以降、植民地主義批判や歴史哲学の文脈で大きく揺れ動いてきた。
出自と青年期
ピサロは、おおよそ1470年代にスペイン西部エストレマドゥーラ地方のトルヒーリョに生まれたとされる。私生児であり、正規の教育をほとんど受けずに成長したと伝えられるが、軍事的才能と決断力によって身を立てた。エストレマドゥーラは征服者を多数輩出した地域であり、後のメキシコ征服者とされる人物たちと同じ社会的背景を共有していた。この地域の貧困と名誉意識が、多くの若者を海の向こうの「インディアス」へと向かわせたのである。
新大陸への渡航とパナマ
16世紀初頭、ピサロはイスパニョーラ島に渡り、その後パナマ地峡の征服と植民に従事した。彼はパナマの征服で実績を上げ、やがて太平洋岸の未知の南方地域に「黄金の国」が存在するとの噂を耳にする。この噂が後にインカ遠征につながる。スペイン王権の名の下で行動する彼らコンキスタドールは、軍事的成功と同時にエンコミエンダを通じた先住民支配や富の獲得をめざし、その行動様式は後の歴史家や思想家、たとえばサルトルやニーチェが論じる植民地主義の倫理問題とも結びついて理解されるようになった。
インカ帝国遠征の開始
- 1520年代前半、ピサロは仲間とともにパナマを拠点として南方航海を試み、現在のコロンビアからエクアドル沿岸に達した。
- そこでは高度な文明と豊富な金銀が存在するとの情報を得て、より大規模な征服遠征の必要を確信した。
- 彼はスペイン本国に戻り、王権からインカ征服の正式な許可と特権を得て、再び大西洋を渡った。
こうしてインカ遠征は、個人的野心と王権の利益が結びついた事業として制度化され、アメリカ大陸におけるスペイン帝国拡大の重要な一環となった。
インカ帝国の内紛とカハマルカの戦い
インカ帝国の危機と機会
インカ帝国はピサロ到来の直前、大規模な内戦と疫病に苦しんでいた。皇帝ワイナ・カパックの死後、その息子たちの間で王位継承争いが起こり、最終的にアタワルパが勝利したが、帝国の統合は揺らいでいた。スペイン側はこの内紛と地方支配層の不満を巧みに利用し、少数の兵力で巨大帝国を制圧する足がかりとした。
カハマルカでのアタワルパ捕縛
1532年、ピサロはアンデス山中のカハマルカでアタワルパと会見し、突然の攻撃によってインカ皇帝を捕縛した。火器や鉄器、騎兵、そして組織された戦術に支えられた奇襲であり、その武装は後世の技術史研究でボルトや金属加工の発展といった要素とも関連付けて語られることがある(たとえばボルトのような部材が武器・鎧の構造を支えたと理解される)。アタワルパは莫大な金銀の身代金を差し出したにもかかわらず処刑され、インカ帝国の政治的中心は崩壊に向かった。
クスコ攻略とリマ建設
ピサロはアタワルパ処刑後、傀儡インカ皇帝を立てつつクスコへ進軍し、1533~1534年に同地を制圧した。彼は旧来のインカ支配層や地方首長と協調しつつも、エンコミエンダによって先住民の労働力と貢納を掌握し、スペイン支配の基盤を築いた。その後、1535年に太平洋岸に新たな都市リマ(「諸王の都」)を建設し、ここをスペイン植民地支配の中心とした。リマは政庁、裁判所、教会などが集中する都市として発展し、ヨーロッパとアンデスを結ぶ政治・商業の要衝となった。
征服者同士の対立と暗殺
インカ征服の成功は、スペイン人征服者の間に利権と権威をめぐる激しい対立を生じさせた。ピサロは同じコンキスタドールであるディエゴ・デ・アルマグロと、クスコ支配権や富の分配をめぐって争い、やがて内戦に発展した。アルマグロは一時クスコを占領したが、のちに処刑され、その支持者たちは復讐の機会をうかがった。1541年、リマの邸宅でピサロはアルマグロ派の一団に襲撃され、暗殺された。この内紛は、征服が単なる「偉業」ではなく、富と権力をめぐる争奪戦でもあったことを示している。
評価と歴史的意義
ピサロはインカ帝国征服によってスペイン帝国に莫大な金銀財をもたらし、ヨーロッパ経済と世界貿易の構造に大きな影響を与えた。他方で、その征服は先住民社会に深刻な人口減少と文化破壊をもたらし、キリスト教布教と王権の名の下に行われた暴力支配として批判の対象となってきた。近代以降、征服者像は単純な英雄ではなく、植民地主義と暴力の象徴として再検討され、哲学者ニーチェやサルトルが論じた権力・道徳・責任といった問題とも結びつけられることが多い。こうした思想的議論は、技術や軍事力の問題(武器やボルトといった物質的基盤)とも絡み合いながら、帝国と暴力の歴史的意味を問い直す営みとして続いている。