ヒンデンブルク
ヒンデンブルク(パウル=フォン=ヒンデンブルク、1847年〜1934年)は、ドイツ帝国軍の将軍にして、のちにワイマール共和国の大統領を務めた人物である。東部戦線のタネンベルク会戦で名声を高め、「国民的英雄」として崇拝されたが、共和政下では保守派の象徴となり、大統領緊急令を多用して議会制民主主義を弱体化させた。最終的にはアドルフ=ヒトラーを首相に任命し、結果としてナチス独裁を成立させたことで歴史的責任が問われている。
生い立ちと軍人としての歩み
ヒンデンブルクはプロイセンの地主貴族(ユンカー)出身で、若くして士官学校に入り、普仏戦争にも従軍した。参謀本部勤務を経験して軍内部での評価を高めるが、退役と現役を行き来しながら比較的地味な経歴を歩んだ。彼は伝統的なプロイセン軍人の価値観を体現し、君主制と軍の名誉を重んじる保守的な人物であり、後のワイマール憲法下の共和政に対しても内心では距離を置いていたとされる。
第一次世界大戦とタネンベルク会戦
第一次世界大戦が勃発すると、東部戦線でロシア軍に対処するため、退役していたヒンデンブルクが再び前線に呼び戻された。彼は参謀長エーリヒ=ルーデンドルフとコンビを組み、1914年のタネンベルク会戦でロシア軍に大勝した。この勝利はドイツ国内で大々的に宣伝され、ヒンデンブルクは「国民的英雄」として崇拝されるようになる。のちに彼とルーデンドルフは事実上の最高司令部として戦争指導を主導し、総力戦体制を進めたが、戦局悪化を覆すことはできなかった。
帝政崩壊とワイマール共和国への移行
1918年、ドイツは敗北を認めて休戦を受け入れ、皇帝ヴィルヘルム2世は退位して帝政は崩壊した。戦争指導の一翼を担ったヒンデンブルクは、敗北の責任を前線兵士ではなく政治家に転嫁する「背後からの一突き」伝説の形成に関与し、共和政に対する不信を煽る一因となった。戦後成立したワイマール共和国は、ヴェルサイユ条約による賠償問題と国内のインフレーションに苦しみ、政情不安が続いた。
ワイマール共和国大統領への就任
1925年、初代大統領エーベルトの死去に伴い、大統領選挙が実施されると、保守派・民族主義勢力は象徴的存在としてヒンデンブルクを擁立した。彼自身は共和政に批判的であったが、「国家の統合」のためとして立候補を受け入れ、決選投票で勝利して大統領に就任した。ここで、戦時の英雄が共和政の最高職に就いたことは、制度上はワイマール憲法の枠内であったものの、君主制への郷愁が強い保守層にとっては象徴的な出来事であり、議会制民主主義と保守エリートの微妙な妥協関係を生み出した。
大統領緊急令と議会制の空洞化
ワイマール憲法は、大統領に非常時の大きな権限を与える第48条(大統領緊急令)を定めていた。ヒンデンブルクは政党間対立で議会多数派が安定しない状況のもと、この緊急令を頻繁に発動し、議会の同意を得ずに内閣に統治を行わせた。シュトレーゼマン内閣による通貨改革やドーズ案・ヤング案などで一時的に安定した時期もあったが、世界恐慌後には大統領緊急令に依拠する「大統領内閣」が常態化し、議会制民主主義は著しく空洞化した。
ヒトラー任命とナチス政権の成立
1930年代初頭、恐慌の影響と高失業により極右・極左政党が台頭し、特にナチスは国民政党として急成長した。保守派指導者たちは、議会多数派を構成できない中で、ナチスを利用して秩序回復と左翼封じ込めを図ろうとし、強い指導者像を掲げるヒトラーを政治的取引の対象とみなした。最終的にヒンデンブルクは1933年1月、周囲の説得を受け入れてヒトラーを首相に任命する。この決定により、ナチスは合法的手続きの外形を備えつつ権力掌握を進め、議会の無力化と一党独裁体制の構築へと突き進んだ。
晩年と死去
ヒトラー内閣成立後、ヒンデンブルクはなお形式的には国家元首として存在したが、高齢と病弱もあって政治への影響力は急速に低下した。ナチスは彼の権威をプロパガンダに利用しつつ、着々と反対勢力の排除と権力集中を進めた。1934年にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは大統領職を廃して「総統」に就任し、国家元首と首相の権限を兼ね備えた独裁者となった。この意味でヒンデンブルクの死は、ワイマール体制の最終的終焉を象徴する出来事であった。
軍人としての評価
軍人としてのヒンデンブルクは、タネンベルク会戦の勝利によって名声を得たが、その評価には神話的誇張も含まれているとされる。戦略立案においては参謀本部やルーデンドルフの役割が大きく、彼自身は象徴的指導者の側面が強かった。また、長期戦への備えを欠いたドイツの戦争指導の責任から完全に免れることはできない。彼の言動や宣伝は、敗戦の責任を政治家や市民に転嫁する土壌を作り、のちの共和政への不信と急進的ナショナリズムの台頭を間接的に助長した。
保守エリートと民主主義の関係
ヒンデンブルクの歩みは、保守エリートが議会制民主主義をどのように受け止め、いかにしてそれを弱体化させたかを示す典型例とされる。彼は形式的にはワイマール共和国の大統領として制度を守ったが、実際には大統領緊急令に依拠して議会を迂回し、保守的な権威主義体制を志向した。その過程で、シュトレーゼマンら穏健派の努力やレンテンマルク導入などの安定化策、さらにはローザンヌ会議による賠償問題解決の試みも、構造的には政治文化の変容を十分に進めることができなかった。保守エリートの計算違いと、彼らが依拠したヒンデンブルクの権威が、結果としてヒトラー独裁への道を開いた点に、歴史的な教訓が見出されている。