パリ=コミューン
1871年のパリ=コミューンは、普仏戦争敗北後の混乱したフランスで、パリ市民と国民軍が樹立した革命的自治政府である。約2か月という短命に終わったが、労働者や小市民が自らの代表を選び、市政と軍事を掌握しようとした試みとして、近代ヨーロッパ史と社会主義運動に大きな影響を与えた。
成立の背景
19世紀後半のフランスでは、急速な産業化とパリの大改造によって、職人や労働者の生活は不安定になり、共和主義や社会主義の思想が広まっていた。第二帝政の対外冒険であるアロー戦争、インドシナ出兵、メキシコ出兵や、スエズ運河建設を進めたレセップス支援は財政を悪化させ、政権への不満を高めた。
普仏戦争とパリの危機
1870年に勃発した普仏戦争でフランスはドイツ諸邦に敗北し、とくにスダンの戦いではナポレオン3世が捕虜となり第二帝政は崩壊した。パリでは共和派が蜂起して共和国を宣言し、臨時政府として国防政府が成立したが、戦争継続と包囲戦による食糧不足や物価高騰により、市民の不満は一層高まっていった。
コミューン成立の過程
1871年1月、臨時政府は講和を優先してプロイセンと休戦を締結し、アルザス・ロレーヌの割譲と賠償金支払いを受け入れたため、パリ市民は屈辱的講和に激しく反発した。3月18日、政府がパリ国民軍の大砲を没収しようとしてモンマルトルに軍隊を送ると、兵士は市民側に同調して発砲を拒み、政府要人はヴェルサイユへ退避した。3月26日の選挙の結果、革命的市政としてのパリ=コミューンが宣言され、パリは中央政府から独立した自治体制に入った。
政治体制と理念
パリ=コミューンは、市会議員にあたる代議員から構成される評議会を中心として統治された。評議会は立法・行政・軍事を兼ねる委員会を設置し、実務を分担した。代議員は選挙によって選ばれ、短期任期と罷免制が採用され、官吏の俸給も熟練労働者と同程度に抑えられた。ここには、特権的官僚制を否定し、市民自治と社会的平等を結びつけようとする理念があったとされる。
主な改革と政策
- 教会と国家の分離を宣言し、教会への公的補助を廃止して教育から宗教を排除しようとした。
- 常備軍を廃止し、市民からなる国民軍による防衛を原則とする方針を掲げた。
- 戦時中の未払い家賃の免除や、家賃・債務返済の猶予など、都市住民の生活を救済する措置をとった。
- 閉鎖された工場や工房を労働者の協同組合に引き渡す構想を示し、生産の共同管理をめざした。
- 世俗的で無償の初等教育を拡充し、女子教育の改善や教師の身分向上を目指す政策を打ち出した。
支持基盤と内部の対立
パリ=コミューンを支えたのは、パリ国民軍に参加した職人・労働者・下層中産階級であり、とくに東部や北部の労働者地区が強い支持基盤となった。他方で、市内の富裕層や保守的層の多くはヴェルサイユ側に移り、コミューン内部でも急進的共和派と社会主義的傾向をもつグループとのあいだで、対独戦争の扱いや財産政策などをめぐって対立が続いた。
ヴェルサイユ政府との戦闘と崩壊
ヴェルサイユに退いたティエール政権は、プロイセンから捕虜将兵の返還を受けて軍を再建し、パリへの攻勢準備を進めた。4月以降、郊外をめぐる戦闘でコミューン側は次第に劣勢となり、5月21日からの「血の一週間」でヴェルサイユ軍が市内へ突入すると、街路戦とバリケード戦ののちパリ=コミューンは壊滅した。多くの戦闘員と市民がその場で処刑され、さらに多数が投獄・流刑に処され、その犠牲者数は数万人に達したとされる。
歴史的意義
短命に終わったものの、パリ=コミューンは、都市住民が自らの代表を通じて自治と社会改革を実行しようとした最初期の試みとして、その後の社会主義運動や労働運動に強い印象を与えた。マルクスは著作の中でコミューンをプロレタリア独裁の「現実的な先駆」と評価し、20世紀の革命運動はしばしばその経験から教訓を引き出そうとした。今日でも、国家と都市、民主主義と社会的平等の関係を考えるうえで重要な歴史的事例と位置づけられている。