パリ改造|近代都市計画が生んだ首都改造の姿

パリ改造

パリ改造とは、19世紀中葉の第二帝政期に、皇帝ナポレオン3世の下でセーヌ県知事ジョルジュ=オスマンが進めた大規模な都市改造事業である。中世以来の狭隘で不衛生な街区を解体し、放射状に延びる大通り、公園、上下水道などを整備することで、近代都市パリの骨格を形づくった政策であり、同時に政治的秩序維持や社会統制の意図も込められていた。

19世紀中葉のパリと改造の背景

改造以前のパリは、セーヌ川沿いの旧市街が雑然と広がり、住宅と工房と貧民街が混在する都市であった。19世紀前半のパリは、中世以来の迷路のような細い路地が張り巡らされ、衛生状態が悪く、しばしばコレラなどの流行病に襲われていた。また、1830年や1848年の革命では、これらの狭い街路がバリケード戦の舞台となり、王政や政権にとって治安上の脅威となっていた。ナポレオン3世は、この状況を改めるため、都市を抜本的に作りかえる計画を構想し、セーヌ県知事に任命したオスマンに実行を委ねたのである。こうして再編された都市空間は、のちにサルトルら知識人が集うカフェやサロン文化の基盤ともなっていった。

オスマンによる大通りと都市インフラの整備

オスマンの計画の中心は、エトワール広場から放射状に延びる大通りをはじめとする幹線道路網の建設であった。シャンゼリゼ大通りやリヴォリ通りなどの整備によって、人と物資の流れが円滑になり、軍隊も市街地を迅速に移動できるようになった。同時に、新しい上下水道、ガス街灯、水道橋、公園や広場が整備され、市民生活の衛生と快適さが大きく向上した。ブローニュの森やヴィンセンヌの森の再整備は、市民に開かれた大規模な緑地空間の象徴となった。

  • 幹線道路網と広場の新設
  • 上下水道・水道橋・ガス灯の整備
  • 公園・緑地・遊歩道の拡充

景観と建築規制

オスマンは、新しい大通りに面する建物の高さや外壁材、バルコニーの位置を詳細に規制し、均質で整然とした景観を作り出した。石造のファサード、1階の商店と上階の住居、一定の屋根勾配などから成る「オスマン様式」の建物が並び、パリ中心部は統一感あるブルジョワ的都市空間へと変貌した。こうした街路は、のちに百貨店やカフェ、劇場が集中する商業・娯楽の軸となり、都市の歩行者文化と消費文化を支える舞台となった。

社会構造の変化と批判

しかしパリ改造は、単なる美化事業ではなかった。大通り建設のために多くの旧市街地が破壊され、地価の上昇によって貧しい住民は郊外へと追いやられた。中心部には富裕なブルジョワ階級が居住し、階級ごとの居住分化が進んだのである。広く直線的な大通りは、軍隊が反乱を素早く鎮圧するための「戦略的美化」とも評され、オスマンの手法は権力と資本に奉仕する都市計画として批判の対象ともなった。近代都市の匿名性や疎外感は、のちにニーチェサルトルといった思想家が論じた近代批判や実存の問題とも重なり合うものとして理解されている。

財政負担と第二帝政の行方

大規模な都市改造は、多額の公債発行と銀行からの借入によって支えられた。地価上昇による利益は一部の投資家や建設業者に集中し、都市財政には重い負担が残った。1860年代以降、景気後退と社会不満が高まると、オスマンは議会で攻撃され、やがて罷免された。ナポレオン3世の第二帝政も普仏戦争の敗北によって崩壊し、パリ改造は華やかな近代都市像と、その背後に潜む社会的矛盾を象徴する事業として記憶されることになった。

近代都市計画への影響

オスマンの事業は、ウィーンのリング通りやバルセロナのエイシャンプルなど、各国の首都改造に大きな影響を与えた。直線的な大通り、広場、公園を組み合わせた都市構造は、20世紀の都市計画や交通計画の基準となり、今日の再開発事業にも参照されている。舗装道路、上下水道、照明といったインフラの整備は、工場と機械技術、すなわちボルト1本に象徴されるような工業技術の発展とも不可分であり、パリ改造は産業化時代のヨーロッパ社会全体の変容と切り離しては理解できないのである。

(文々亭憲治)