バンテン王国|香辛料交易のイスラーム港市国家

バンテン王国

バンテン王国は、16世紀半ばにジャワ島西端に成立したイスラーム王国であり、胡椒を中心とする海上交易で栄えた港市国家である。前身のヒンドゥー=仏教系のスンダ王国が瓦解したのち、スーフィー聖者とされるスナン・グヌン・ジャティに連なる系譜のもとでマウラナ・ハサヌッディンが支配を確立し、バンテン(古名バンタム)はアジア海域とインド洋・大西洋を結ぶ香辛料回廊の要衝となった。16~17世紀にはアラブ、グジャラート、中国、ヌサンタラ各地の商人が集まり、港は多言語・多宗教のコスモポリスとして機能した。他方で17世紀後半にはオランダのVOCが勢力を拡大し、王国は内紛と対外圧力のはざまで衰微、19世紀初頭に政治的独立を失った。

成立とイスラーム化

バンテン王国の起源は、1520年代にスンダ・クラパ(後のジャヤカルタ)を制したイスラーム勢力の進出にさかのぼる。スナン・グヌン・ジャティの子であるマウラナ・ハサヌッディンは、ジャワ西端の戦略的港湾で支配基盤を固め、イスラームの布教と商業統治を結びつけて王権を整備した。イスラームへの改宗は王権の正統性を支えるとともに、紅海・インド洋世界の商人ネットワークを呼び込み、政治的自立と経済的飛躍をもたらした。

胡椒貿易と港市社会

王国の富の源泉はスマトラ島南部ランプンに広がる胡椒生産地の掌握であった。胡椒は軽量高価で貯蔵に適し、遠隔地交易に理想的である。王権は港の租税・関税(シャフバンダル制度)を整え、商人保護と宗教的寛容を掲げて航路の安全を演出した。港市バンテンにはモスク、倉庫、隊商宿、外国人居住区が並び、アラビア語・ペルシア語・マレー語・漢語などが飛び交った。現在も大モスク(マスジッド・アグン・バンテン)や王宮跡スロソワンの遺構が、当時の繁栄を物語る。

統治機構と宗教文化

バンテン王国はスルタンを頂点とし、宰相層や港湾行政官を配した。イスラーム法学と慣習法が併存し、ウラマーと共同体長が紛争解決に関与した。教育面ではペサントレン(イスラーム寄宿塾)が形成され、学知はマレー世界へ循環した。王国は銅貨「ピティス」や銀貨の鋳造で貨幣流通を支え、交易都市としての制度的厚みを備えた。

対外関係:ポルトガル・オランダ・イギリス

16世紀末、ヨーロッパ勢力がアジア海域に参入すると、バンテンは巧みな均衡外交を展開した。1596年に初のオランダ艦隊が到来し、1602年にはVOCが設立される。1603年にはイギリスのEICも商館を置き、王国は胡椒の競争買付を利用して関税収入と政治余力を確保した。しかし17世紀後半、最盛期のスルタン・アゲン・ティルタヤサ(在位1651–1682)がVOCの独占に抵抗すると、王太子(のちのスルタン・ハジ)がVOCと結託、内戦に発展した。1682年の敗北以後、王国はVOCの制約下に置かれ、港の自由交易性は大きく損なわれた。

衰退と終焉

内紛とVOCの圧迫は通商路の再編を招き、胡椒の集散機能は低下した。18世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)が地域中枢として台頭し、バンテン王国の相対的地位は後退する。19世紀、英政下のジャワを統治したスタンフォード・ラッフルズは1813年に王権を廃し、バンテンは植民地統治(のち蘭領東インド)の行政単位へと再編された。とはいえ、イスラーム学知、商都文化、建築遺産は地域社会に受け継がれ、19世紀末の農民蜂起など反植民地主義の精神的土壌にも影響を残した。

主要年表

  • 1520年代:スンダ・クラパをめぐる抗争ののち、イスラーム勢力が台頭
  • c.1526–1527:マウラナ・ハサヌッディンがバンテン王国を確立
  • 1596:初のオランダ艦隊が到来、胡椒貿易に参入
  • 1603:イギリスEICが商館設置、港市の国際化が進展
  • 1651–1682:スルタン・アゲン・ティルタヤサの治世、最盛と対VOC抗争
  • 1682:内戦で王党敗北、VOCの政治的影響力が決定的に
  • 1813:ラッフルズにより王権廃止、植民地行政へ再編

経済・社会の特徴

胡椒独占の鍵はランプン支配と航路安全であった。王国は関税収入・倉庫料・度量衡規制で市場を統御し、外国商人の居留と保護を制度化した。多民族居住は工芸・金融・通訳といった都市職能を生み、イスラーム共同体は寄進(ワクフ)とモスクを中核に社会的セーフティネットを形成した。こうした複合的な都市機構が、16~17世紀のアジア海域分業の中でバンテンを不可欠の結節点へと押し上げたのである。

史料と遺構

当時の情況は、アラブ語・マレー語年代記、ポルトガル・オランダの旅行記・航海記、VOC公文書、イギリス商館日誌などに散在する。現地には大モスクや王宮・運河網・城壁の遺構があり、考古学・建築史・歴史地理学の手法が補完する。文字史料の偏り(欧文史料の視点と行政記録中心)を踏まえつつ、地域伝承やイスラーム教育施設の歴史を総合することで、バンテン王国の実像はより立体的に浮かび上がる。