バトゥ|モンゴル西征を率いた金帳汗国の祖

バトゥ

バトゥ(Batu Khan, 1200年代初頭生—1255年)は、チンギス・カンの長子ジョチの子であり、ジョチ・ウルスの実質的な創設者である。彼は1236年から1242年にかけての西方遠征を統帥してルーシ諸公国、ヴォルガ・ブルガール、さらにポーランド・ハンガリーにまで侵攻し、1240年にはキーウを陥落させた。戦略面では名将スブタイの支援を得つつ、冬季機動や偽装退却を駆使して野戦・渡河戦で優位を確保した。オゴデイ・ハーンの死報により本隊は東方へ引き上げたが、帰途ののち下ヴォルガにサライを建て、のちに「黄金のオルド」と呼ばれる権力を固めた支配者である。

出自と家族

バトゥはジョチの子として生まれ、オルダ、シバンら兄弟とともにジョチ家の広大な分封を継承した。チンギス家の慣行では、各子孫が「ウルス(分国)」を領し、宗主たる大ハーンに奉仕する体制であった。ジョチ家はカザフ草原からヴォルガ下流に至る西北のフロンティアを担当し、草原の遊動と河川交通を合わせ持つ地政学的優位を背景に勢力を拡張した。バトゥの周囲にはスブタイ、カダン、ベリグテイら歴戦の将が集い、遠征に耐える指揮・補給の制度が整っていたのである。

西方遠征(1236–1242)

遠征はまずヴォルガ・ブルガール征服(1236)から始まり、1237年にリャザン、ついで1238年にウラジーミル=スーズダリ諸都市を破った。1240年にはキーウを攻略し、ルーシ諸公国は朝貢と人質提出を強いられた。1241年には二方面作戦が展開され、ポーランド方面軍はレグニツァでドイツ・ポーランド諸勢力を撃破し、主力はハンガリーでシャイオ川(モヒ会戦)においてベーラ4世軍を粉砕した。補給路の確保、河川渡渉の工兵運用、冬季遠征の継続は、機動戦を旨とするモンゴル軍の典型であった。

  • 1236年:ヴォルガ・ブルガール征服、交易路支配の基盤化
  • 1237–1238年:ルーシ北東諸公国制圧、都市包囲の体系化
  • 1240年:キーウ陥落、宗教施設・権威の打撃と政治再編
  • 1241年:レグニツァ・モヒ両会戦の勝利、中央欧の軍事的優位確立
  • 1242年:オゴデイ死の報により撤兵、草原へ帰還

支配体制とサライの成立

遠征後、バトゥは下ヴォルガ流域にサライを築き、遊牧と定住の結節点として君侯裁可・税収・交易を担う政庁機能を集約した。のちに「黄金のオルド」と称されるこの勢力は、ジョチ・ウルスの中枢としてルーシ諸公国に対しヤルルィク(免許状)を授与して大公位を裁定し、バスカク(徴税監督官)を派遣して歳入を安定させた。河川交通・毛皮・穀物・奴隷などの流通はカスピ海・黒海の港湾と接続し、ユーラシアの東西交易における重要な中継を担ったのである。

ルーシ諸公国との関係

バトゥは直接統治を志向せず、在地の公を通じた朝貢秩序を整備した。ウラジーミル大公位をめぐる裁可はサライの承認なくして成立せず、のちにアレクサンドル・ネフスキーらがサライに赴いて拝謁し、ヤルルィクを得る慣行が確立した。破壊を被った都市の再建と引き換えに、定期的な貢納・軍役徴発が制度化され、ルーシ世界は経済・軍事・外交においてジョチ家の覇権下に組み込まれたのである。

宗教政策と文化

モンゴル帝国は通例として宗教寛容を掲げ、聖職者・修道院への課税免除がしばしば認められた。バトゥ自身は遊牧の伝統的信仰を保持していたとされるが、キリスト教・イスラーム双方の聖職者を保護し、交易・外交の実利を優先した。のちに弟ベルケがイスラームに改宗すると、ジョチ・ウルスの文化的景観はイスラーム色を強め、カフカス・ヴォルガ下流域の学芸ネットワークが広がった。

帝国中枢政治への影響

1241年末のオゴデイ死後、モンゴル帝国では大ハーン位の空位をめぐる調整が続いた。バトゥは西方の実力者としてクライ諸王家に影響力を行使し、グユクとは対立関係にあったと伝えられる。やがてトレ家を支持し、1251年のモンケ擁立に寄与したことは周知である。これによりジョチ家は東方本営と一定の協調を取り戻し、サライの権威は大ハーン政権と相互補完的に機能した。

軍事的手法と評価

バトゥの作戦は、スブタイの周到な偵察・通信網、複数縦隊の同時進撃、機動投石・工兵による包囲・渡河の組合せにより成果を上げた。特に冬季の凍結河川を利用した補給・渡河は、草原騎兵の季節適応力を活かす合理的選択であった。西欧修道士やルーシ年代記は彼を脅威と描く一方、ペルシャ語史料は統治者としての調停・裁可能力を評価し、彼が単なる破壊者ではなく秩序の創出者でもあったことを示唆する。

死去と遺産

1255年にバトゥは没し、後継としてサルトク、のちにベルケが権力を掌握した。サライは黒海北岸からヴォルガ下流に至る広域の交易・課税・裁可の中心として長く機能し、ルーシ諸公国の政治発展や東欧の都市経済に長期的な影響を与えた。ユーラシアの大動脈を握った支配は、のちのタタール=モンゴル支配という記憶を形成し、地域秩序の再編に決定的な刻印を残したのである。

史料と研究

バトゥの事績はルーシ年代記、ラテン語旅行記(プラノ・カルピニ、ルブルク)、ペルシャ語叙述(ジュヴァイニー、ラシードゥッディーン)などに基づいて再構成される。諸史料の視角は多様で、宗教的関心、政治的立場、地域的被害の程度により叙述が異なるため、比較・照合が不可欠である。考古学や地理情報の進展はサライ周辺の都市像を具体化し、草原と河川の相互連関の理解を深めている。