ハイドゥの乱|フビライ体制に抗う草原勢力の反乱

ハイドゥの乱

ハイドゥの乱は、オゴタイ家の王族ハイドゥ(Kaidu, c.1230–1301)が大ハーン権力の再編に抗して起こした長期戦争である。舞台は天山以西の草原・オアシス地帯からアルタイ・イリ盆地、さらにはトランスオクシアナに及び、13世紀後半を通じて元朝の西北辺と中央ユーラシアの勢力図を大きく揺るがした。彼はチャガタイ系勢力と提携して分権的秩序を志向し、クビライ(フビライ)の一元的支配に挑戦し続けた点に特徴がある。

背景――帝国分裂期の出自と政治環境

モンケ死後の後継争いで帝国は分裂傾向を強め、クビライとアリクブケの対立が全域に動揺を広げた。ハイドゥはオゴタイ家の嫡流に属し、宗家の権威回復を掲げて自立化を進めた。西方の草原路とオアシス路が交差するタリム盆地縁辺やイリ流域に拠点をもち、遊牧軍事力とオアシス交易の収益を結合させることで、長期抗争を支える人的・財政的基盤を整えたのである。

勢力基盤と同盟――チャガタイ家との接合

ハイドゥはチャガタイ家の有力諸王と連携し、同家の汗位に影響力を及ぼした。とりわけドゥワ(Duwa)との関係は深く、両者は山間牧地とオアシスを分担しつつ、元朝の辺境軍を消耗させる遊撃・奇襲・補給線遮断を反復した。イリ・セミレチエの牧地、フェルガナへの出入口、カシュガル—ヤルカンド一帯の交通節点(例:カシュガル)を抑えることで、戦争継続に不可欠な補給網と馬匹循環を確保したのである。

戦局の推移――遊撃・包囲・遮断の反復

抗争の中心は、城塞攻略よりも機動と遮断に比重が置かれた。ハイドゥ側は小部隊の連携で辺境砦を釣り出し、追撃段階で背後補給を断つ戦法を常套とした。一方の元軍は大規模な遠征では優勢でも、長大な補給路維持に苦しんだ。ときにオルホン上流方面へも戦線が伸び、旧都周辺の威信拠点が脅かされる局面も生まれたが、決定的勝利はどちらにも訪れず、消耗と再編が交互に現れた。

タラスの会盟(1269)と中アジア秩序

1269年、タラス河畔の会盟では西方諸王が通行税や分封の調整を図り、草原・オアシス経済の再起動が模索された。ここでハイドゥは交通路の管理権と発言力を強め、戦と交易の均衡点を押さえつつ主導権を確保した。会盟後はトランスオクシアナの収入が軍事へ転化され、抗争は質的に持久戦の局面へ移る。

西域前線とオアシス経済

長期戦を支えたのはオアシス都市の課税・関所収入・牧畜資源であった。隊商宿や市場網(キャラバンサライ)の管理は情報・金融・食料を一体化し、移動軍の持久を可能にした。とくにタリム縁辺の市と草原牧地の接合は、兵站運用における「草原—オアシス連結モデル」の典型を示す。

元朝側の対応――辺境体制と外征戦略との齟齬

元朝は北西辺の軍政組織を改編し、招撫・懐柔と討伐を併用した。だが南宋降伏後に構築した外征重視の体制(参照:元の遠征活動)は、海陸遠征の兵站と資源配分を優先しがちで、西域の持久的治安化には必ずしも適合しなかった。結果として、辺境の守勢と外征の攻勢が互いに資源を奪い合う構図が生じ、ハイドゥ側の機動を許す余白が残った。

終焉と講和――1301年の戦死から1304年の全域和議へ

1301年、ハイドゥは激戦で負傷し没した。後継の内部調整と情勢判断ののち、同盟者ドゥワは大ハーンテムル(Chengzong)への名目的服属を受け入れ、1304年に諸ウルスが広域講和に至った。これにより一時的な交通安定が回復し、草原・オアシスの交易連関は再起動した。西北方面の緊張緩和は、ジョチ家の政体(例:キプチャク=ハン国)やルーシ世界の再編(タタールのくびき)にも波及した。

影響と歴史的評価

ハイドゥの乱は、帝国の「大ハーン—諸ウルス」関係を再定義し、地域分権化を既成事実化した。遊牧の動員力とオアシス財政の結合、草原機動と補給遮断の技術、通行税・市場課税の軍事転用など、モンゴル型統治の多層性が鮮明となった。加えて、旧来の征服と違い、交易・通信・在地統治を巡る「統合の政治」が前景化し、のちの中アジア秩序の枠組みを準備したのである。

史料と研究――一次叙述と比較視角

  • モンゴル宮廷・イラン圏の史料群(例:集史)は諸汗・諸王の系譜と戦局記録を提供する。
  • オアシス都市史・交易史の視角からは、バトゥらの西方展開(バトゥ)やジョチ系政権との比較が有効である。
  • 交通・物流研究では、草原—オアシス—河川の接合と隊商制度が鍵となる(参考:キャラバンサライ)。

以上のように、ハイドゥの乱は単なる反乱ではなく、中央ユーラシアの統治形態・交易ネットワーク・軍事技術の再編を促した長期的な政治過程である。西方のウルス再編、ルーシ・西アジアとの接続、中央草原の勢力均衡など重層的な影響を及ぼし、帝国史から地域史へと視野を広げる上で不可欠の事例である。