ナントの王令の廃止
ナントの王令の廃止とは、フランス王ルイ14世が1685年のフォンテーヌブロー勅令によって、かつてアンリ4世が発したナントの王令によるプロテスタント(ユグノー)への信仰の自由と政治的権利を取り消した出来事である。これによりフランスにおけるカルヴァン派は事実上違法化され、国内の宗教的一体性は強まったが、多数のユグノーが亡命し、経済・文化・国際関係に大きな影響を与えた。
ナントの王令と宗教戦争の終結
ナントの王令は1598年、ブルボン朝創始者アンリ4世によって公布され、約30年に及ぶ宗教戦争で疲弊したフランスに妥協的な平和をもたらした。カトリックが国教であることを確認しつつ、ユグノーには一定の礼拝の自由と要塞都市の保有、政治的権利を認めるという複雑な体制であった。この体制は、王権のもとで異なる信仰が共存するという点で、近世ヨーロッパとしては例外的なものであり、後の啓蒙思想や宗教寛容の議論の先駆とも評価されることがある。もっとも、王権強化を進めたルイ13世、宰相リシュリューの時代には、ユグノーの軍事的特権が削減され、こうした中でナントの王令は次第に「一時的な妥協」とみなされていった。
ルイ14世の絶対王政と宗教的一体性
ルイ14世は「太陽王」と呼ばれる絶対王として、国内の政治・社会を王権のもとに統合しようとした。その一環として、宗教的一体性の確立は重要な課題であり、カトリックとプロテスタントが並立する状況は「分裂」と見なされた。王権とカトリック教会との関係はガリカニスムに基づき、教皇権に対するフランス王権の優位を主張しつつも、国内ではカトリック信仰の優越を維持した。後世の思想家サルトルやニーチェが、宗教と権力の結びつきを批判的に論じたことと比較すると、ルイ14世の宗教政策は、王権と教会の協調による「信仰に裏づけられた統一国家」の追求として理解できる。
ナントの王令の廃止の過程
ナントの王令の廃止に至るまでには、段階的な圧迫政策が存在した。ユグノー教会の閉鎖、礼拝の制限、混婚の強要、改宗者への優遇措置などが相次いで実施され、とくにドラゴナードと呼ばれる竜騎兵の宿営政策は、プロテスタント家庭に兵士を宿泊させ、改宗を強制する残酷な方法として知られる。地方の行政官や司教は、王の威信を背景に改宗報告を競い合い、形式的な改宗が急増した。
- 教会・学校の閉鎖や破壊
- ユグノー牧師の国外追放
- 子女のカトリック教育の義務化
- 新たなプロテスタント礼拝の禁止
こうした状況のなかで、1685年のフォンテーヌブロー勅令によってナントの王令は正式に撤回され、ユグノーはもはや合法的な宗教共同体として認められなくなった。
ユグノー亡命と経済・文化への影響
ナントの王令の廃止の直接的な結果として、多数のユグノーがフランスを脱出し、オランダ、イングランド、ブランデンブルク=プロイセン、スイス、さらには北アメリカへと亡命した。彼らの多くは高い技術をもつ職人、商人、金融業者、軍人であり、その流出はフランス経済にとって打撃となった。一方、受け入れ国側では、紡績・製造業や金融業の発展に寄与し、亡命ユグノーは国際商業ネットワークの形成にも重要な役割を果たした。近代社会を論じたニーチェの思想などと合わせてみると、信仰と経済活動が密接に結びつき、宗教政策が人的資本の移動を通じてヨーロッパ全体の勢力図に影響したことが理解できる。
国際関係とヨーロッパ社会への影響
ナントの王令の廃止は、宗教寛容を重視するプロテスタント諸国に衝撃を与え、ルイ14世の対外政策への警戒心を一層高めた。イングランドやオランダでは、亡命ユグノーの保護が王権や議会の正当性を示す手段ともなり、フランス絶対王政に対する道徳的優位を主張する材料となった。こうして、宗教政策は単に国内統治の問題にとどまらず、ヨーロッパ諸国間の同盟関係や戦争の構図にも影響を及ぼしたのである。後世の政治思想や歴史解釈では、この出来事は絶対王政が宗教的一体性を追求するあまり、社会の多様性と経済的活力を損なった典型例としてしばしば取り上げられている。