ドンズー運動
ドンズー運動は、20世紀初頭のフランス領インドシナで展開されたベトナム民族運動の一つであり、日本への留学生派遣を通じて祖国の独立と近代化をめざした運動である。指導者はファン=ボイ=チャウで、彼は日露戦争に勝利した日本を、植民地支配から脱却するための模範とみなした。運動は多くの若者を日本へ送り出したが、列強間の外交関係の変化と日本政府による弾圧によって短期間で後退を余儀なくされた。
歴史的背景
19世紀末から20世紀初頭、ベトナムはフランスの保護国・植民地として再編され、伝統的な王朝体制は大きく制約を受けた。重税や土地制度の変化は農民の困窮を招き、知識人や都市のエリート層の間では、植民地支配に抵抗するベトナムの民族運動が徐々に形成されていく。1904年の日露戦争で日本がロシアに勝利すると、アジアの一国が欧米列強に対抗し得ることを示す象徴的出来事として受け止められ、ベトナムの志士たちは明治期の改革を学び、同様の近代国家建設を通じて独立を達成できるのではないかと考えるようになった。
名称と理念
ドンズー運動は、ベトナム語で「東遊」を意味する「Dong Du」に由来し、「東方=日本へ赴き学ぶ」という理念を表現している。ここでいう「東」は、欧米列強に支配されていない近代国家としての日本を指し、アジア内部の連帯を前提とした構想でもあった。運動の理念は、単なる留学斡旋ではなく、日本で軍事・技術・政治制度・教育制度を学び、それを将来の祖国解放のための人的・知的基盤に転化することにあった。この発想は、アジア諸地域で高まっていたナショナリズムの潮流と結びついている。
ファン=ボイ=チャウと組織化
ファン=ボイ=チャウは、阮朝の没落と農村の困窮を目の当たりにし、旧来の王朝改革だけでは独立は実現しないと考えるようになった。彼は志を同じくする同志とともに結社を組織し、在外活動を通じて支援者と資金を募り、日本留学計画を具体化させる。彼の構想では、若い世代を中心とした留学生を日本の学校に入学させ、近代軍事学・工学・商業・政治学を学ばせることで、将来の革命運動を担う指導層を育成しようとした。こうしてドンズー運動は、ベトナム国内の地下組織と、日本における留学生ネットワークを結びつける形で展開した。
日本への留学と教育内容
1905年前後から、数十人規模のベトナム人青年が日本に到着し、東京や横浜などで学んだとされる。彼らは語学や基礎学科に加え、軍事訓練や最新の産業技術の習得を重視し、将来的に祖国で軍隊や行政機構を整備することを目標とした。日本側でも一部の民間団体や政治結社がこれを支援し、寄付や奨学金を通じて留学生を受け入れた。こうした経験を通じて、留学生たちは近代的な学校制度や議会政治、新聞・出版といったメディアの役割、都市経済のダイナミズムを肌で感じることになり、その体験が帰国後の政治活動や啓蒙活動の基盤となった。
日本・フランス・ベトナムの三者関係
ドンズー運動の展開は、フランスと日本の対外政策の変化と密接に絡んでいた。日露戦争直後、日本はアジアの「模範」として多くの植民地知識人の支持を集めたが、他方で列強の一員として国際的地位の安定をめざしていた。その過程で、日本はフランスとの協調を重視するようになり、やがてベトナム人留学生や亡命者を庇護することが外交上の負担とみなされていく。こうして日本政府は、フランスの要請を受け入れる形でベトナム人活動家への監視を強化し、運動は次第に制約を受けるようになった。
弾圧と運動の挫折
1908年前後になると、フランス当局はベトナム国内での反税運動や暴動を取り締まり、その背後にある志士ネットワークの摘発を進めた。これと連動して、日本政府もベトナム人留学生に対する取り締まりを強化し、多くの学生に対して退去命令が出された。指導者層は中国大陸など新たな拠点を求めるが、日本で築かれた教育体制は維持できなくなり、ドンズー運動は留学運動としては大きく後退することになった。この挫折は、民族運動が列強の外交関係に左右される脆弱さを示す一方で、海外拠点を複数持つ必要性を志士たちに自覚させる契機ともなった。
その後のベトナム民族運動への影響
ドンズー運動は短命に終わったものの、その経験は後続のベトナムの民族運動に大きな影響を与えた。日本で学んだ青年たちは、中国や東南アジア各地に活動拠点を移しつつ、近代政党組織の構想や宣伝活動の手法を取り入れ、新たな独立運動を展開していった。また、アジアの一国が近代化によって列強に対抗し得るというイメージは、ベトナムのみならず東南アジア史全体における思想的資産となった。日本留学を通じた人的ネットワークは、のちの革命家や改革派知識人の経歴にもたびたび姿を現し、民族運動の国際的な広がりを示している。
東南アジアと日本の近代史における位置づけ
ドンズー運動は、植民地ベトナムの独立運動史で重要であると同時に、アジア諸国が日本の近代化をどのように受容し、各地の政治運動に翻訳したかを考えるうえでも重要な事例である。明治維新後の明治時代日本は、ヨーロッパ列強に倣って帝国主義的膨張を進める一方で、他方のアジアからは「脱亜入欧」と「アジアの希望」という二重のイメージで見られていた。ベトナムの志士たちが日本に託した期待と、その後の失望や再編の過程をたどることは、アジア内部の関係史を理解する手がかりとなり、近代のナショナリズムや東南アジア史研究においても、重要なテーマとして位置づけられている。