ドイツ連邦
ドイツ連邦は、1815年のウィーン会議で成立したドイツ諸邦のゆるやかな国家連合である。ナポレオン戦争によって解体された旧神聖ローマ帝国に代わり、中部ヨーロッパの秩序を再建するために設けられた。この連邦は39の君主国と自由都市から構成され、対外的には諸国の独立と領土保全を保障し、対内的には革命運動を抑えつつ旧体制を維持する装置として機能した。
ウィーン体制とドイツ連邦の成立
ナポレオンの敗北後、ヨーロッパの国際秩序はウィーン体制として再構築された。その一環としてドイツ連邦が構想され、オーストリア外相メッテルニヒら保守勢力は、フランス革命型の急進的変革がドイツ世界に再び波及することを恐れた。そこで旧帝国のような重層的・封建的構造を温存しつつ、諸邦をゆるく結びつける連合体としての連邦が選ばれたのである。
ウィーン議定書と連邦規約
連邦の基本枠組みは、1815年のウィーン議定書と連邦規約によって定められた。そこではドイツ連邦が国際法上の主体として承認される一方、構成国の主権は広く認められ、共通機関の権限は厳しく限定された。フランスの拡張を抑止するために西部の国境線が調整され、将来の戦争に備えた共同防衛義務が盛り込まれたが、国民代表制や基本権保障に関する規定は含まれず、保守的な妥協の産物であった。
構成国とフランクフルト連邦議会
ドイツ連邦は、オーストリア、プロイセンをはじめとする中小諸侯国、さらに自由都市ハンブルクなどから成り立っていた。連邦の唯一の常設機関がフランクフルト・アム・マインに置かれた連邦議会であり、議長職は常にオーストリア代表が務めた。この議会は各政府から派遣された全権大使で構成される「君主の代理の会議」であり、近代的な意味での国民議会ではなかったため、ドイツ市民の意見が直接反映される仕組みは存在しなかった。
オーストリアとプロイセンの権力均衡
ドイツ連邦の内部では、オーストリアとプロイセンの主導権争いが常に横たわっていた。伝統的な大国であるオーストリア帝国は議長国として保守秩序の維持に努め、一方でプロイセンは軍事力と行政改革を背景に台頭し、経済面では関税同盟を通じて多くのドイツ諸邦を自国の勢力圏に引き込んでいった。この二重権力構造は、後に「ドイツ二重体制」と呼ばれる対立構図を生み、連邦の機能不全を深める要因となった。
自由主義・民族運動とメッテルニヒ体制
19世紀前半のヨーロッパでは、フランス革命以来の自由主義と民族主義の思想が広がり、ドイツでも統一と憲法を求める学生団体や市民層の運動が高まった。これに対し、オーストリアのメッテルニヒは検閲と警察権を強化し、ドイツ連邦を通じて言論や大学への監視を行った。こうした抑圧政策は、むしろドイツ人のあいだに共通の敵意識を生み、のちの民族国家形成へとつながる感情を醸成した。
1848年革命とフランクフルト国民議会
1848年、ヨーロッパ各地で革命が勃発すると、ドイツ諸邦でも蜂起が広がり、フランクフルトには全ドイツから選出された代表による国民議会が招集された。この1848年革命の中で、国民議会は全ドイツを統一する憲法案と国家像を議論し、ドイツ連邦を超える近代的な国民国家構想が具体化した。しかし、プロイセン王の皇帝即位拒否や諸侯の反動により計画は挫折し、連邦の枠組みだけが温存される結果となった。
ドイツ連邦と周辺地域の再編
ドイツ連邦の成立は、中部ヨーロッパだけでなく周辺諸国にも影響を与えた。たとえば、オランダ王のもとで設けられたオランダ立憲王国や、後に独立するベルギーなど、西欧の境界線はウィーン体制の原則に基づいて再配置された。また、分割されていたポーランドは、ロシアの支配下におかれたポーランド立憲王国などとして扱われ、ドイツ諸邦との関係も複雑化した。こうした再編は、やがてヨーロッパ各地の民族運動を刺激することになる。
解体とドイツ帝国への移行
1860年代になると、プロイセン首相ビスマルクが主導する軍事・外交政策により、ドイツ連邦の枠組みは決定的に揺らいだ。1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利すると、連邦は事実上解体され、その北部地域にはプロイセン主導の北ドイツ連邦が成立した。さらに1871年、対仏戦争の勝利を背景にヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国が宣言されると、ドイツ統一は現実のものとなり、ウィーン体制期の連邦的秩序は完全に過去のものとなった。
欧米国民国家形成との関連
ドイツ連邦は、近代的な国民国家とは異なり、封建君主と小領邦の利害を優先した妥協的な連合体であった。しかし、その内部で展開した自由主義運動や民族統一運動は、近代ヨーロッパにおける欧米国民国家の形成という大きな流れの一部であり、成功と失敗の経験を通じて、ドイツ人が統一国家像を模索する舞台となった。その意味でドイツ連邦は、保守的秩序と国民国家への移行期をつなぐ、過渡的な政治体制として位置づけられる。