ドイツ社会民主党
ドイツ社会民主党は、19世紀後半に成立したドイツの代表的な社会民主主義政党であり、労働者運動を基盤に成長し、やがて議会制民主主義を支える大衆政党へと変化していった政党である。19世紀の産業化とともに形成された労働者階級の政治的代表として登場し、ビスマルク体制下の弾圧、ワイマル共和国の与党経験、ナチスによる非合法化、戦後西ドイツでの再建と路線転換、東西ドイツ統一後の変容など、ドイツ近現代政治史の多くの局面に深く関わってきた。
成立の背景と前身組織
ドイツ社会民主党の起源は、1863年にフェルディナント・ラッサールが設立した全ドイツ労働者協会と、1869年にアウグスト・ベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒトが結成した社会民主労働党にさかのぼる。これらの組織は、産業革命の進展により社会問題が深刻化する中で、労働者の政治的権利と社会改革を求める運動として生まれた。両者は1875年ゴータで合同し、社会主義労働者党を名乗った。この過程でマルクスとエンゲルスの理論的影響を受けつつも、現実政治との折り合いを模索する路線が採用された。
ビスマルク体制と社会主義者鎮圧法
ドイツ帝国成立後、首相ビスマルクは社会主義運動を国家秩序への脅威とみなし、1878年に社会主義者鎮圧法を制定してドイツ社会民主党(当時の社会主義労働者党)を非合法化した。党組織の解体や出版・集会の禁止が行われた一方で、帝国議会への立候補自体は形式上禁止されず、党は「合法と非合法」のあいだで活動を続けた。ビスマルクは同時に社会保険制度などの社会政策を導入し、労働者の不満を和らげることで社会主義勢力の影響力を削ごうとしたが、結果として政党支持の拡大を抑えることはできず、鎮圧法下でも帝国議会における議席は増加していった。
SPDへの改称と大衆政党への成長
1890年に社会主義者鎮圧法が失効すると、党は合法政党として再出発し、名称をドイツ社会民主党(SPD)へと改めた。1891年のエルフルト綱領は、マルクス主義を理論的基盤としつつ、議会を通じた漸進的改革を重視する方針を明確にした。やがてSPDは帝国議会で最大勢力となり、労働組合運動とも連携しながら、選挙権拡大や社会立法の推進を求める大衆政党として位置づけられた。しかし党内では、革命的路線を重視する立場と、エドゥアルト・ベルンシュタインに代表される修正主義的立場とのあいだで、理論と戦略をめぐる激しい論争が展開された。
第一次世界大戦と党内分裂
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、SPD議員団は戦費調達法案に賛成し、「祖国防衛」の立場から政府を支持した。この決定は国際的な社会民主主義運動にとって大きな転機となり、平和主義・国際主義を掲げてきた伝統との矛盾を引き起こした。党内左派は政府支持に反対し、やがて独立社会民主党(USPD)として分裂し、その一部は後にドイツ共産党を結成する。こうした分裂は、戦後の政治体制をめぐる主導権争いにも影響を与え、1918年の革命とワイマル共和国成立の過程で、SPDは一方で民主共和制を確立しつつ、他方で急進左派との対立に直面することになった。
ワイマル共和国と民主政治の担い手
帝政崩壊後、SPDは1918年革命を主導し、フリードリヒ・エーベルトが共和国初代大統領に就任するなど、ワイマル共和国の成立に中心的役割を果たした。SPDは中道勢力と連立を組み、議会制民主主義と社会改革を両立させる体制を目指したが、戦後経済の混乱、賠償問題、政治的暴力に悩まされ、安定した政権運営は困難であった。党は民主主義防衛の立場から極右・極左勢力と対決したものの、1930年代の世界恐慌を背景にナチスが台頭すると、議会内での影響力は相対的に低下していく。やがてSPDは、ナチスによる権力掌握を阻止し得ず、ワイマル体制そのものが崩壊していった。
ナチス時代の非合法化と抵抗
1933年、ナチ党が政権を掌握すると、ドイツ社会民主党は全体主義体制に対して最後まで議会内で反対の意思を示した政党のひとつである。授権法採決に際してSPDは反対票を投じたが、その直後に党は非合法化され、指導者は逮捕・亡命・地下活動へと追い込まれた。党員の多くは収容所送りとなり、国内組織は壊滅状態となったものの、亡命指導部は国外から民主主義回復を訴え続けた。この経験は、戦後のSPDが反ファシズムと議会制民主主義の擁護を自らの歴史的使命として強調する根拠となった。
戦後西ドイツとゴーデスベルク綱領
第二次世界大戦後、西側占領地域ではSPDが再建され、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の主要政党としてキリスト教民主同盟(CDU/CSU)と並び立つことになった。当初、SPDは伝統的なマルクス主義色の強い綱領を維持していたが、冷戦構造と経済成長のもとで有権者層の拡大を図る必要に迫られた。1959年のゴーデスベルク綱領は、階級政党から「国民政党」へと転換する重要な節目であり、市場経済の容認、NATOと欧州統合への現実的対応など、従来のイデオロギーを修正した内容であった。その結果、SPDはより広い中間層を取り込む政党へと変貌し、ヴィリー・ブラント政権の東方政策などを通じて、冷戦下のヨーロッパ秩序にも大きな影響を与えた。
東西統一と現代のSPD
東ドイツでは、社会主義統一党(SED)が実質的に一党独裁を行い、SPDは存在しなかったが、1989年の体制転換を機に東ドイツでも社会民主党が再建され、1990年のドイツ再統一に際して西側のドイツ社会民主党と合流した。以後SPDは、統一ドイツの主要政党として、CDU/CSUとの政権交代や大連立を通じて政治運営に関与している。とりわけシュレーダー政権期には、「アジェンダ2010」による社会保障・労働市場改革が進められ、従来の福祉国家モデルの見直しが図られたが、同時に支持基盤である労働者層との緊張も生んだ。現代のSPDは、グローバル化とEU統合の下で、社会的公正と競争力の両立、環境政策やヨーロッパ統合の深化など、多様な課題に取り組む中道左派政党として位置づけられている。
関連する思想と他国の社会民主主義
ドイツ社会民主党の歴史は、ヨーロッパ全体の社会民主主義運動の模範とみなされ、他国の政党にも強い影響を与えてきた。ドイツの経験は、フランスのフランス社会党や北欧諸国の社会民主政党、さらには帝国主義時代の対外政策として議論された世界政策との関係など、広い文脈で理解されるべきである。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の時代、帝国宰相ビスマルクとの対立、第一次世界大戦後のワイマル共和国体制、そして思想面でのシオニズムや他の社会運動との交錯などをたどることで、その歴史的意義と限界を立体的に把握することができる。