ドイツ共和国|ワイマール期の民主国家

ドイツ共和国

ドイツ共和国は、第一次世界大戦末期の1918年11月のドイツ革命によって成立した共和制ドイツ国家を指す歴史用語である。帝政ドイツが崩壊し、ホーエンツォレルン家の皇帝が退位すると、社会民主党指導部を中心とする臨時政府が樹立され、君主制に代わる民主共和制が宣言された。この時期の国家の正式名称は「ドイツ国(Deutsches Reich)」であったが、1919年に制定されたワイマル憲法下の体制は、一般に「ヴァイマル共和国」とも呼ばれ、日本語史学ではドイツ共和国という名称とほぼ同義で用いられている。

成立の背景

第一次世界大戦が長期化するなかで、ドイツは連合国による海上封鎖や総力戦体制によって深刻な食糧不足とインフレに直面した。1918年春攻勢の挫折以後、前線では兵士の戦意が低下し、後方ではストライキや反戦運動が広がった。とくに1918年11月のキール軍港の水兵反乱は、全国的な反乱の引き金となり、各地で兵士と労働者が武装蜂起した。こうした状況の中で皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、帝政は崩壊してドイツ共和国の樹立が宣言された。

レーテと臨時政府

革命の過程では、ロシア革命に影響を受けたレーテ(評議会)がドイツ各地で組織された。工場労働者と兵士から構成される労兵評議会は、地方行政の掌握や治安維持を行い、一時的には二重権力に近い状況を生み出した。他方で、社会民主党指導部は議会制民主主義の枠内での改革を志向し、評議会運動を急進化させず、選挙による国民議会招集へと革命を収束させようとした。この妥協的な性格が、のちにドイツ共和国の政治的不安定さの一因となる。

スパルタクス団と急進左派

革命期の左派内部では、社会民主党主流派と急進派との対立が激しかった。急進派の中心となったのがスパルタクス団であり、その理論的指導者がローザ=ルクセンブルクリープクネヒトであった。彼らは議会制ではなく評議会による権力掌握を主張し、革命の徹底を求めたが、1919年1月の武装蜂起は政権とフライコールによって鎮圧され、両名も殺害された。その後、急進派はドイツ共産党として再編されるが、社会民主党との分裂は労働者運動の分断を固定化し、ドイツ共和国を支える左派勢力の基盤を弱める結果となった。

ヴァイマル憲法と政治制度

1919年、ワイマルで開かれた国民議会は新しい民主的憲法を制定した。一般にワイマル憲法と呼ばれるこの憲法は、当時としてはきわめて先進的な内容を持っていた。

  • 男女普通選挙制の導入
  • 基本的人権の保障と社会権の明記
  • 比例代表制にもとづく議会構成
  • 大統領に強い権限を与える半大統領制

しかし、比例代表制は小党分立を招き、連立内閣が頻繁に交代する不安定な政局を生み出した。また、大統領に非常事態条項を通じて広範な権限を与えたことは、経済危機と政治混乱のなかで権威主義的統治へと傾斜する土壌ともなった。こうしてドイツ共和国の制度は、民主主義的でありながら危機に脆弱な構造を内在させていた。

経済危機と政局の不安定化

戦後賠償問題とインフレはドイツ共和国を深刻に苦しめた。1923年には極端なハイパーインフレが発生し、中産階級の蓄えはほぼ無価値となった。その後、ドーズ案などによって一時的な安定がもたらされ、「黄金の二〇年代」と呼ばれる文化的繁栄も見られたが、1929年の世界恐慌は再びドイツ経済を直撃した。大量失業と社会不安の中で、ナチ党など急進的な勢力が急速に支持を広げ、議会は機能不全に陥った。

崩壊とその歴史的意義

1930年代初頭には、大統領緊急令による大統領内閣が常態化し、議会制民主主義は形骸化した。1933年、ヒトラーが首相に任命され、国会議事堂放火事件と授権法を通じてナチ独裁体制が確立されると、事実上ドイツ共和国は終焉を迎える。短命に終わったこの共和国は、敗戦国ドイツが民主化と社会改革を模索する過程で生まれた最初の本格的な民主政体であり、その制度的弱点と社会的条件の分析は、20世紀の民主主義の脆弱性とファシズム台頭を理解するうえで重要な手がかりを提供している。