ドイツの統一
19世紀ヨーロッパとドイツ世界
一般にドイツの統一とは、19世紀に多数のドイツ諸邦がプロイセン王国を中心に統合され、1871年にドイツ帝国が成立するまでの政治・軍事・外交の過程を指す。ナポレオン戦争後のヨーロッパでは、ウィーン体制のもとで旧来の君主制と保守勢力が秩序を維持しようとしたが、一方でナショナリズムと自由主義の高まりが、民族国家を求める動きを各地で生み出した。ドイツ地域でも、言語や文化を共有する「ドイツ民族」の国家を求める気運が、産業化や市民層の成長とともに強まっていったのである。
ウィーン体制とドイツ連邦
1815年のウィーン会議では、ナポレオンによって再編されたドイツ世界が再び組み直され、「ドイツ連邦」が創設された。これはオーストリア帝国とプロイセン王国を含む約39の諸邦からなる緩やかな連合体であり、統一国家というよりは旧神聖ローマ帝国のゆるい後継組織であった。オーストリアは連邦議長国として保守的な体制を維持しようとし、自由主義的改革や国家統一の要求を抑え込んだが、知識人や学生層の間ではドイツ民族の連帯意識が徐々に育っていった。後の世に生きた哲学者ニーチェが批判した近代国家と権力の問題も、このような統一ドイツの成立を背景としていたと理解できる。
経済的統合とプロイセンの台頭
政治的には分裂したままであったが、19世紀前半にはプロイセン主導で「ドイツ関税同盟」が形成され、多くのドイツ諸邦が参加した。関税同盟は域内の関税障壁を取り払い、工業製品や農産物の自由な流通を促進したことで、ライン地方やルール地方を中心とする産業化を後押しした。この経済的統合は、国家としてのドイツの統一を準備する重要な基盤となり、同時にオーストリアを同盟から排除することでプロイセンの主導権を鮮明にした。鉄道網の整備や重工業の発展は、やがて軍需産業や電気工業にもつながり、電圧の単位ボルトに象徴されるような技術革新を支える力ともなった。
1848年革命と自由主義的統一構想
1848年にはフランスの二月革命を契機として、ドイツ各地でも自由主義と民族統一を掲げる革命運動が広がった。フランクフルトにはドイツ初の全国議会が招集され、立憲君主制と統一国家を実現しようとする憲法草案が議論された。この議会では、オーストリアを含めた「大ドイツ主義」と、プロイセンを中心にオーストリアを除外する「小ドイツ主義」が対立し、最終的には小ドイツ案にもとづく皇帝位がプロイセン王に提案された。しかしプロイセン王は「革命から授けられた王冠」を拒否し、自由主義的な統一構想は挫折した。とはいえ、この経験は市民層の政治参加意識と民族国家への志向を一層強め、後のビスマルクによる実力主義的な統一の土台となった。
ビスマルクの外交と三つの戦争
1860年代にプロイセン首相となったビスマルクは、言論よりも「鉄血」による解決を掲げ、現実的な外交戦略と軍事力を用いてドイツの統一を達成しようとした。彼はプロイセン軍制改革を進めるとともに、列強との同盟・対立関係を巧みに操作して、短期間に三つの戦争を仕掛けたのである。
- 1864年の対デンマーク戦争では、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン両公国をめぐり、プロイセンとオーストリアが協力してデンマークを破り、両公国の管理権を獲得した。
- 1866年の普墺戦争では、この管理問題を口実としてオーストリアと戦い、決定的勝利を収めた結果、ドイツ連邦は解体され、プロイセン主導の北ドイツ連邦が成立した。これによりオーストリアはドイツ問題から事実上排除された。
- 1870〜71年の普仏戦争では、フランス第二帝政との対立を利用して南ドイツ諸邦をプロイセン側に引き込み、共同でフランスを撃破した。この勝利が、最終的な帝国成立の直接の契機となった。
ドイツ帝国の成立と政治構造
普仏戦争の勝利を受けて、1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン王が「ドイツ皇帝」として即位し、ドイツ帝国が成立した。新国家はプロイセン王を頂点とする連邦君主制国家であり、バイエルンやヴュルテンベルクなどの諸王国・諸侯国が一定の自治権を保持しつつ、軍事・外交・通貨などの重要分野を帝国政府に委ねた。帝国憲法のもとで、諸邦代表からなる連邦参議院と普通選挙で選ばれる帝国議会が設置されたが、実権は依然として皇帝と宰相ビスマルク、軍部や官僚機構に集中していた。このような権威主義的な構造は、後にニーチェやサルトルといった思想家が批判した近代国家のあり方とも深く関わっていた。
統一ドイツのヨーロッパ史上の意義
19世紀末までに達成されたドイツの統一は、ヨーロッパの勢力均衡を大きく揺るがした。経済力と軍事力を兼ね備えた新興ドイツ帝国は、イギリスやフランスと並ぶ列強として台頭し、植民地獲得や軍拡競争をめぐって他国と緊張関係を深めていった。その一方で、ドイツ統一はイタリア統一など他地域のナショナリズム運動を刺激し、「民族国家」を近代の標準的な政治単位として定着させた出来事でもあった。統一後のドイツ社会が抱えた軍国主義や権威主義、急速な産業化による社会問題は、20世紀の世界大戦と深く結びつき、哲学者ニーチェやサルトルが問い直した近代ヨーロッパ文明の矛盾を象徴する歴史経験となったのである。