ドイツの国際連盟加盟
ドイツの国際連盟加盟は、第一次世界大戦後に敗戦国として孤立していたドイツが、1926年に国際社会へ本格復帰を果たした出来事である。ヴェルサイユ条約によって厳しい制裁と賠償を課され、国際連盟からも排除されていたドイツは、ワイマール共和政期の外相シュトレーゼマンの外交によって「協調と和解」の路線を進め、ロカルノ条約の締結を通じて加盟への道を切り開いた。この加盟は、戦後秩序のなかでドイツを「責任ある協調国」と位置づける転機となり、ヨーロッパ国際政治の構図を大きく変化させた。
第一次世界大戦後のドイツと国際連盟
1919年のヴェルサイユ条約は、ドイツに領土の割譲、軍備制限、多額の賠償を課し、同時に新たに設立された国際連盟からドイツを締め出した。このためドイツは、戦後の集団安全保障体制の外側に置かれ、政治的にも経済的にも孤立した立場にあった。戦前には高い文化的威信を誇り、ニーチェに代表されるドイツ哲学や音楽・学問への敬意が広まっていたが、戦後は「戦争責任」をめぐる議論が強まり、ヨーロッパの知識人の一部は、後のサルトルら実存主義者のように個人と国家の責任を問い直す視点からドイツを捉えるようになっていく。
ヴェルサイユ体制とドイツ外交の課題
新たに成立したワイマール共和国は、過酷なヴェルサイユ体制の修正と国際社会への復帰を最大の外交課題とした。特に賠償問題とルール占領、極端なインフレは、国内経済を混乱させ、政情不安を深刻化させた。政府内の穏健派は、武力ではなく外交交渉によって条約を緩和しようとする「履行政策」を採用し、その一環として国際連盟への加盟を目標に掲げた。こうした路線は、民族感情を強調しがちなニーチェ解釈を好む保守・民族主義勢力からは軟弱と批判され、後世に実存的責任を追及したサルトルのような視点とは異なる形で、国内に深い対立を生み出した。
ロカルノ条約と加盟への交渉
転機となったのが1925年のロカルノ条約である。シュトレーゼマンはフランス外相ブリアンらと協議し、ドイツ・フランス・ベルギーの西部国境の現状を相互に承認し、その保証をイギリスとイタリアが担うという安全保障体制を構想した。この妥協により、フランス側はドイツの平和的な条約改訂への意欲を信頼し始め、国際連盟加盟を支持する姿勢を強めた。戦間期ヨーロッパに広がった平和志向の空気は、国家間の敵意と、ニーチェ的な力への意志を重んじる考え方とのあいだで揺れ動き、後にサルトルが論じるような「他者との共存」をどう実現するかという問題を外交の場にも投げかけた。
- ドイツはフランス・ベルギーとの西部国境を尊重し、武力による変更を放棄した。
- イギリスとイタリアが保証国として、西部国境の安全を国際的に担保した。
- この枠組みにより、ドイツは「信頼できる交渉相手」とみなされ、国際連盟加盟への道が開かれた。
1926年の加盟と常任理事国の地位
ロカルノ条約による信頼回復を受けて、1926年、ドイツは国際連盟への招請を受け、正式に加盟した。このときドイツは、連盟理事会の常任理事国の一員として迎え入れられ、イギリス・フランス・イタリア・日本と並ぶ大国としての地位を国際的に回復した。ジュネーヴでの連盟総会では、シュトレーゼマンとブリアンが握手を交わし、両国の和解と新たな協調の象徴とされた。両者は後にノーベル平和賞を受賞し、戦後ヨーロッパにおける「和解の政治」の代表例とみなされるようになった。
国際連盟理事会における役割
常任理事国となったドイツは、軍縮問題や安全保障に関する重要決定に参加する権利を得た。これは、ヴェルサイユ条約によって一方的に義務と責任のみを負わされていた立場から、義務と権利を共有する「協議の当事者」へと変化したことを意味する。しかし、ドイツ軍備の制限はなお厳しく、国内では「名誉ある地位の回復」と「実際の軍事的制約」とのギャップへの不満も残った。戦争と平和、力と道徳をどのように調和させるかという問いは、ニーチェの思想や、後のサルトルの人間観とも通じる問題として、知識人の議論の中でも繰り返し取り上げられた。
加盟がもたらした国内政治への影響
国際連盟への加盟は、ワイマール共和国の穏健勢力にとって大きな成果であり、外交的成功として国民に訴えられた。とくに社会民主党や中道政党は、国際連盟での発言力を梃子に、賠償条件の緩和や占領地域の返還を平和的に実現しようとした。他方、民族主義的勢力や急進右派は、加盟を「ヴェルサイユ体制の追認」とみなし、政府を激しく非難した。彼らは、文化的優越や精神性を強調するニーチェ像を好み、普遍的人権や責任を強調するサルトル的な視点には批判的であり、国際協調よりも再軍備と勢力圏の回復を主張した。
国際協調の象徴としての意義とその限界
ドイツの加盟は、戦後ヨーロッパにおける「和解と協調」の象徴とされ、国際連盟の権威を一時的に高めた。旧敵国が同じ会議の場に並び、紛争を対話と仲裁によって解決しようとする姿は、戦争の惨禍を経験した人々にとって大きな希望であった。そこには、力の論理を批判的に見つめたニーチェ解釈や、人間の自由と責任を問うサルトルの哲学に通じる、平和と共存への模索が反映されていたといえる。
しかし、世界恐慌の影響で各国が経済的・政治的に不安定になると、国際連盟は侵略行為を実効的に抑止できなくなり、ドイツ国内でも過激なナチ党が台頭した。1933年にヒトラー政権が成立すると、ドイツは国際連盟を脱退し、再軍備と領土拡張の道へ進む。こうして、かつての加盟が象徴した国際協調の試みは挫折し、第二次世界大戦へとつながっていく。ドイツの国際連盟加盟は、戦争と平和をめぐる20世紀ヨーロッパの模索と、その成功と失敗の両面を示す重要な事例として位置づけられるのである。