テオドシウス
テオドシウス1世(347–395)は、ローマ帝国の東方正帝として即位し、394年の内戦終結後には東西両帝国を統一して統治した最後の皇帝である。彼はヒスパニア出身の将軍家に生まれ、アドリアノポリスの戦い後の混乱を収拾しつつ、ゴート人をフォエデラティとして受け入れる和約(382年)をまとめた。また380年のテッサロニカ勅令によりニカイア派キリスト教を国教と位置づけ、異端と異教に対する一連の法令を通じて宗教的秩序を再編した。対内では皇帝権の儀礼的威厳を高め、対外では多民族化する軍制を運用して帝国の延命を図った。
生い立ちと即位
彼はヒスパニアのカウカに生まれ、名将テオドシウス(父)のもとで軍歴を重ねた。378年、ウァレンス戦死後に東方は空位となり、翌379年、グラティアヌスは彼を東方正帝に擁立した。即位当初はバルカンでのゴート勢力の流入と反乱が続いていたが、テオドシウスは軍再建と交渉を併行して進め、長期的安定を優先する「包摂の和平」へ舵を切った。
宗教政策と法令
380年のテッサロニカ勅令は、ニカイア信条を奉ずる信仰を「カトリカ」正統として位置付ける画期となった。テオドシウスは続く391–392年の法令群で公的な異教儀礼や供犠を禁圧し、都市の宗教空間を再編した。アリウス派をはじめとする諸派への抑圧も進んだが、法の運用は地域差を残し、地方の慣行は段階的に変容した。こうした法文化は後世の『テオドシウス法典』(ただし編纂自体はテオドシウス2世の代)に結実していく。
軍事・外交とゴート和約
382年、ゴート人を帝国領内の同盟従属民(フォエデラティ)として団体受容する和約を締結した。これは兵站・土地・徴税の枠組みを再編し、非ローマ人エリートを帝国軍事機構に位置付ける制度的転換であった。対内戦では383年に西方で擡頭したマグヌス・マクシムスを388年に討ち、394年にはエウゲニウス政権をフリギドゥスの戦いで破って全帝国の主となった。
統治スタイルと儀礼
テオドシウスは「ドミナートゥス」的宮廷儀礼を整え、皇帝像を神聖かつ超人的な権威として演出した。儀礼と法が結合することで忠誠の秩序は明確化され、宮廷・官僚機構・司教団の三者が相互に正統性を補強する枠組みが構築された。これは君主制のイメージを後のビザンツ宮廷文化へ橋渡しする重要な過程であった。
東西分割と後継
394年に全帝国を回復したものの、395年に崩御すると帝国は慣行に従い再び東西に分かれ、長子アルカディウスが東方、次子ホノリウスが西方を継いだ。宮廷はコンスタンティノープルを重心とし、東方は比較的安定的な財政と都市経済を維持した一方、西方は軍事・財政の逼迫が進んだ。テオドシウスの治世は、統一最後期と持続的分裂の境目に位置づけられる。
都市と社会への影響
宗教政策は都市空間の象徴を塗り替え、聖職者と都市参事会の関係を再配置した。異教神殿の機能停止は文化財の再利用や建築材の転用を促し、司教座聖堂や記念建築が新たな公共性の核となった。こうした変化は都市祭祀・寄進・慈善の制度史的連鎖を生み、社会的信頼の再編へとつながった。
年表(主要項目)
- 347頃 ヒスパニアのカウカに出生
- 379 東方正帝に即位
- 380 テッサロニカ勅令(ニカイア派を正統化)
- 382 ゴート和約(フォエデラティ受容)
- 388 マグヌス・マクシムスを討つ
- 394 フリギドゥスの戦いでエウゲニウスを破る
- 395 崩御、帝国は東西に分割相続
皇帝と司教:道徳的権威のせめぎ合い
テサロニカ虐殺後、ミラノの司教アンブロシウスが皇帝に公的悔罪を迫った事件は著名である。これは皇帝権が宗教的徳の基準に拘束され得ることを示し、法と信仰、宮廷と聖職の権威的均衡を象徴した。テオドシウス治世下で形成されたこの規範意識は、中世の「教権と俗権」の相互牽制を予示する。
財政・軍制の持続と限界
多民族部隊の重用は即応力を高めたが、将軍層の自立化と地方利害の複雑化を招いた。徴税と年金(アナノナ)の再配分は東方優位の構造を強め、西方の脆弱性を残した。テオドシウスの短期的安定化は成功したが、長期的には軍事指揮権と財政基盤の地域分断を進める側面もあった。
同名皇帝との区別
本項の主題はテオドシウス1世である。法典編纂を主導したのは同名のテオドシウス2世(在位408–450)であり、措定の主体を混同すべきでない。両者を含む王朝的文脈は「テオドシウス朝」と総称されるが、宗教・法・儀礼の制度化は二代にわたり進行した。
称号「大帝」と後世評価
テオドシウスはしばしば「大帝」と呼ばれる。異教抑圧の度合いやゴート政策の評価をめぐって近代史学では賛否が分かれるが、宗教正統の確立、宮廷儀礼の制度化、東方の行政的持続性という三点で、古代末期ローマの転換を画したことは疑いない。