ティプー=スルタン
ティプー=スルタンは18世紀後半に南インドのマイソール王国を統治したイスラーム教徒の君主であり、「マイソールの虎」と呼ばれてヨーロッパにも名を知られた人物である。彼は父ハイダル=アリーの後を継いで王国の軍事・財政・外交を掌握し、拡大するイギリス東インド会社の勢力と繰り返し戦い、南インドにおける植民地支配の進行を一時的に食い止めた。強力な常備軍の整備やロケット兵器の活用、国家主導の商業政策など、近代的な統治を志向した点でも注目され、現在では対植民地抵抗の象徴として記憶されている。
生涯とマイソール王国の成立背景
ティプー=スルタンはおよそ1750年頃、南インドのマイソール王国で、軍司令官ハイダル=アリーの息子として生まれた。マイソール王国は、もともとヒンドゥー系の王朝が支配していたが、18世紀半ばになるとデカン高原で勢力を拡大していたマラーター同盟や、衰退しつつあるムガル帝国の地方政権の圧力を受け、政治的に不安定であった。このなかでハイダル=アリーは軍事的才能によって頭角を現し、王を凌ぐ実力者となって実権を掌握し、事実上のマイソール支配者となった。ティプー=スルタンは幼少期から父の遠征に同行し、騎兵と砲兵を中心とする軍事行動を通じて戦場経験を積み、のちの対イギリス戦争の指揮官としての素地を形成した。
イギリス東インド会社との抗争
18世紀後半になると、ベンガル地方や南インド沿岸部でイギリス東インド会社が勢力を拡大し、フランスなど他のヨーロッパ勢力を圧倒するようになった。マイソール王国は、内陸部の有力国家としてこの動きに対抗し、第1次から第4次までのいわゆるマイソール戦争に巻き込まれていく。第2次マイソール戦争の最中である1782年、ハイダル=アリーが死去し、その後継者としてティプー=スルタンが国政を引き継いだ。彼は沿岸部の拠点をめぐってイギリスと激しく争い、1784年のマンガロール条約ではイギリスにほぼ互角の条件を呑ませ、インドの在地政権がまだ完全には従属していなかった段階を示す重要な例となった。
軍事改革とロケット兵器
ティプー=スルタンは軍事面での近代化に熱心であり、父の代から導入されていたヨーロッパ式の訓練や戦術をさらに発展させた。彼はフランス人将校などを登用し、歩兵に一斉射撃を徹底させ、砲兵部隊の機動力を高めるなど、当時のヨーロッパ式軍隊に近い常備軍を育成した。なかでも有名なのが、鉄製の筒を用いたマイソール式ロケット兵器である。これらのロケットは、従来の火矢よりも射程と威力が大きく、第3次・第4次マイソール戦争においてイギリス軍に心理的な衝撃を与えたといわれる。のちにイギリス軍はこの技術を研究し、19世紀初頭のコングリーヴ・ロケットの開発につながったとされ、科学技術史の観点からも注目される。
内政改革と経済政策
内政においてティプー=スルタンは、王権を基盤とした中央集権化と財政基盤の強化を目指した。彼は土地税制を再編し、土地測量にもとづいて徴税を行うことで農村支配の効率化を図った。また、胡椒・香辛料・砂糖・絹などの輸出品に国家独占を導入し、王国の歳入を増やす政策をとったことでも知られる。このような商業政策は、インド洋交易におけるインド産品の価値を背景としたものであり、在地政権が世界経済の変化に対応しようとしていた様子を示している。さらに、灌漑施設の整備や都市スィーララーンガパトナの城塞・倉庫建設など、インフラ整備を通じて王都の防衛と経済活動の活発化を意図した点も特徴である。
宗教政策と支配の正統化
ティプー=スルタンはイスラーム教徒であったが、ヒンドゥー寺院への寄進や在地貴族の保護を通じて、多様な宗教共同体を統治下に取り込もうとした。一方で、戦時における敵対勢力の支配地域では、寺院の破壊や改宗をめぐる伝承も多く、宗教政策については史料解釈をめぐって議論が続いている。彼は書簡や貨幣銘文において、イスラーム世界の大義を強調しつつ、自らを神に選ばれた戦士として位置づけ、ムスリム支配者としての正統性を訴えた。このような宗教的言説は、衰退しつつあったムガル帝国に代わって、南インドに新たな秩序を築こうとする意図とも結びついていたと考えられる。
フランスとの同盟と国際情勢
対外政策においてティプー=スルタンは、拡大するイギリス勢力に対抗するため、積極的に同盟相手を求めた。とくに伝統的なライバルであったフランスとは親密な関係を築き、軍事顧問の派遣や武器の供給を受けたとされる。フランス革命期には、フランス側とのあいだで共和主義的な象徴を共有したという逸話もあり、セーリングパトナに「自由の木」が植えられたという伝承が残る。また、オスマン帝国のスルタンやアフガンの支配者にも使節を派遣し、インド洋世界とイスラーム世界を結ぶ外交網を活用して対イギリス包囲網を構想した。しかし、ナポレオン戦争期の複雑な国際情勢や、在地諸勢力の利害の対立により、彼の構想は十分には実現しなかった。
第3次・第4次マイソール戦争と最期
1790年代に入ると、イギリスはイギリス本国から派遣されたコーンウォリス総督のもとで、マイソールの勢力を決定的に削ぐことを目指した。第3次マイソール戦争では、イギリスがマラーター同盟やハイダラーバードのニザームと結び、包囲網を形成した結果、ティプー=スルタンは1792年のスリーランガパトナ条約で領土の約半分を失い、さらに王子を人質として差し出すことを余儀なくされた。続く第4次マイソール戦争(1799年)では、総督ウェルズリーの下でイギリス軍が再びマイソールに侵攻し、決戦の場となったスリーランガパトナ攻囲戦でティプー=スルタンは城門付近で戦死したと伝えられる。この敗北によりマイソール王国は大幅に再編され、かつての王家であるヒンドゥー系のヴァッジャヤナガル系王朝が復活させられたものの、その実権はイギリス東インド会社の監督下に置かれることになった。
後世における評価と記憶
ティプー=スルタンの死後、イギリス側の文献では、彼はしばしば暴虐な専制君主として描かれ、イギリスの「文明化使命」と対比される存在として利用された。一方、インドのナショナリズムが高まる20世紀以降、彼は対植民地抵抗の英雄、あるいは民族解放の先駆者として再評価されるようになった。今日のインドでは、彼の生誕記念日や、ロケット兵器などの技術的成果、対外的な抵抗の歴史が教育や議論の対象となっている。しかし宗教政策や戦時行動をめぐる評価の分裂も残されており、在地社会の複雑な利害や記憶が反映された人物像となっている。こうしてティプー=スルタンは、18世紀後半の南アジアにおける権力構造の変化と、ヨーロッパ勢力の進出に対する多様な対応を読み解く手がかりとして、歴史研究において重要な位置を占め続けている。