ツァーリズム
ツァーリズムとは、ロシアにおいて君主であるツァーリ(ツァール)が国家と社会をほぼ無制限に支配した政治体制を指す概念である。16世紀にイヴァン4世が「ツァーリ」を正式な称号として採用して以来、1917年のロマノフ朝崩壊まで続いた専制的君主制を総称して呼ぶ場合が多い。皇帝権力の絶対性、ロシア正教との結合、貴族と農民をピラミッド状に組み込む身分秩序などが特徴であり、西欧の絶対王政と共通点をもちつつも、より強い家父長的・宗教的性格をまとった体制として理解される。こうしたツァーリズムは、ロシアの近代化のあり方や革命の原因を考える上で欠かせない枠組みである。
語義と起源
「ツァーリ」という語は、古代ローマ皇帝を意味する「カエサル(シーザー)」がビザンツ帝国を経てスラヴ世界に伝わったものであり、ローマ帝国の後継者を自認する称号であった。モスクワ大公国のイヴァン4世は1547年にツァーリとして戴冠し、キエフ・ルーシの伝統とビザンツ帝国の継承者という正統性を主張した。このときからツァーリズムは、単なる君主号ではなく、「第三のローマ」として世界におけるロシアの特別な使命を意味する政治・宗教イデオロギーとして形成されていったのである。
モスクワ国家と専制体制
イヴァン4世の下で、モスクワ国家は周辺諸公国を併合し、ツァーリを頂点とする集中化が進んだ。ツァーリは貴族層を官僚的な「奉公人」として組織し、土地と特権を条件に軍役・官職を課した。農民はしだいに移動を制限され、17世紀には農奴制が制度的に固定される。こうしてツァーリズムは、ツァーリ個人の意志が法を超えるとされる「専制」と、農奴制に支えられた軍事・財政基盤によって維持される体制として成立したのである。
ロマノフ朝と正教会の役割
17世紀以降のロマノフ朝のもとで、ツァーリズムはロシア正教会と結びつき、宗教的権威によって正当化された。正教会はツァーリを神に選ばれた支配者として称え、臣民に服従と忍耐を説いた。19世紀には「専制・正教・国民性」というスローガンが掲げられ、ツァーリへの忠誠とロシア的伝統の尊重が国民統合の理想として強調された。他方で、近代的な自由主義思想や社会主義思想は、こうした宗教的に彩られたツァーリズムへの批判として広がっていく。
西欧絶対王政との比較
-
第一に、フランスのブルボン朝など西欧の絶対王政と同様、ツァーリは立法・行政・司法を統合する主権者として位置づけられた。しかしロシアでは、身分制議会の伝統が弱く、君主権を制度的に制約する仕組みが発達しなかった。
-
第二に、土地と農奴がツァーリからの恩寵として貴族に与えられるという性格が強く、国家と社会がツァーリの「家産」のように理解されがちであった。この点でツァーリズムは、一層家父長的な支配として体験された。
-
第三に、啓蒙思想や近代哲学、とりわけ権力や道徳を批判的にとらえる思想は、後世のニーチェやサルトルらの議論とも結びつけて論じられ、絶対権力の存在理由そのものが問題とされていった。
近代化とツァーリズムの危機
18世紀のピョートル1世やエカチェリーナ2世は、西欧型の軍事・行政制度を取り入れて近代化を進めたが、政治体制そのものはツァーリズムの枠内にとどまった。19世紀に入ると、農奴解放や司法改革など部分的な改革が行われる一方、秘密警察や検閲による弾圧も強化され、体制はゆるやかな危機を深めていく。1905年革命ではドゥーマ(議会)が設置されたものの、ニコライ2世は専制権力の放棄を拒み、第一次世界大戦の戦争負担が重なった結果、1917年2月革命によってツァーリズムはついに崩壊した。
歴史的意義
ツァーリズムは、ロシアにおける国家と社会の関係を長期にわたって規定し、個人の自由や市民社会の発達を大きく制約した一方で、広大な領土と多様な民族を一つの政治単位に統合する役割も果たした。その遺産は、革命後のソビエト体制にも形を変えて受け継がれたと指摘されることが多い。専制支配と近代化、宗教と国家、個人と権力の関係といった問題を考えるとき、ニーチェやサルトルに代表される近現代思想と並べてツァーリズムを位置付けることは、ロシア史のみならず世界史全体を理解する上でも意義深いと言える。