チェーザレ=ボルジア|冷酷非情な権力追求者

チェーザレ=ボルジア

チェーザレ=ボルジアは、ルネサンス期イタリアで活動したスペイン系貴族ボルジア家出身の軍人・政治家である。教皇アレクサンデル6世(ロドリゴ=ボルジア)の庶子として生まれ、教会高位聖職者から世俗君主へと転身し、ロマーニャ地方に独自の領国を築いた人物として知られる。イタリア戦争とローマ教皇権の権力政治の中心に立ち、冷徹で計算高い行動は後世、マキァヴェッリの『君主論』における「理想的君主像」の重要なモデルとみなされた。

ボルジア家と若年期

チェーザレ=ボルジアは15世紀後半、アラゴン系の名門ボルジア家に生まれた。父ロドリゴはやがて教皇アレクサンデル6世となり、一族はローマの権勢家として台頭する。少年期のチェーザレは、当時の人文主義教育を受けながら教会出世コースを歩み、若くして枢機卿となった。しかし、ボルジア家の世俗的野心は強く、彼自身も宗教より権力・領土の獲得に関心を向けていった点で、後代の実存主義者サルトルとは別種の現実主義者であった。

軍事指導者への転身とロマーニャ支配

のちに枢機卿職を辞したチェーザレ=ボルジアは、フランス王の支援を受けて公爵位と軍事力を手にし、ロマーニャ諸都市へ進軍した。彼は傭兵隊長(コンドッティエーレ)として冷酷な粛清と巧みな同盟外交を使い分け、分立していた都市国家群を次々と制圧した。反乱を起こした諸将を宴に招いて一挙に処刑したセニガリア事件などは、恐怖と秩序を結びつける権力技術の典型例とされる。戦場では槍や弩のボルトが飛び交う中、自ら前線に出て兵を鼓舞したと伝えられる。

マキァヴェッリとの接触と『君主論』

フィレンツェ共和国の外交使節として派遣されたマキァヴェッリは、各地でチェーザレ=ボルジアの行動を観察し、その報告はのちの思索の素材となった。裏切りを恐れず先手を打つ決断力、恩賞と処罰の使い分け、地方貴族を排除して新たな官僚制を敷く統治手法などは、近代政治思想の先駆と評価される。マキァヴェッリ以前後の政治哲学は、近世ヨーロッパで再発見された古代思想や、のちのニーチェの権力論などとも響き合うが、その現実的な実例としてチェーザレは独特の位置を占める。

失脚と死、評価の変遷

父アレクサンデル6世の死とともに、ボルジア家の権勢は急速に崩壊した。新教皇ユリウス2世のもとでチェーザレ=ボルジアは拘束され、最終的にはスペイン領で戦死したとされる。彼の治世は残虐さと陰謀の象徴として非難される一方、分立する権力を統合し秩序を打ち立てようとした「近代的国家形成の先駆」として評価する見解もある。こうした二面性は、20世紀の哲学者サルトルニーチェが論じた人間の自由と責任の問題とも通じ、現代においても歴史・政治思想・倫理学の交差点として研究対象となり続けている。