チェルケス人
チェルケス人は、北コーカサスの西部に起源をもつ民族で、自称をアディゲ(Adyghe)といい、言語的には北西コーカサス語族に属する。中世以来、黒海東岸の交易圏やキプチャク草原、ビザンツ、オスマン帝国、クリミア・ハン国などと接し、武勇と騎乗技術で知られた。19世紀のロシア帝国のコーカサス征服では長期の戦争と住民の大量流出が生じ、現在はロシア連邦内の故地に加え、トルコ、ヨルダン、シリア、イスラエル、欧米に大規模なディアスポラを形成する。イスラーム受容後はスンナ派(主にハナフィー法学)を信奉しつつ、慣習法「アディゲ・ハブゼ」を保持してきた。名称として広く流布した「サーカシアン(Circassian)」は外名であり、内名のアディゲとともに用いられている。
名称と自己呼称
外名「チェルケス/サーカシアン」は中世の地中海世界やイスラーム世界の記録に広く現れ、黒海沿岸の騎馬民・山岳民として知られた。一方、自称のアディゲは文化・言語共同体を指す語である。近代以降、地域集団名としてカバルダ人、シャプスグ人、チェルケス(カラチャイ・チェルケス共和国のチェルケス人)などが区分されるが、広義には同一の民族世界を構成する。
分布と人口
本拠はロシア連邦のアディゲ共和国、カバルダ・バルカル共和国、カラチャイ・チェルケス共和国である。最大のディアスポラはトルコにあり、19世紀後半の移住・移送を起点に各地へ定住した。レヴァントではヨルダンのアンマン周辺、シリア、イスラエル北部に共同体が存在し、欧州や米国にも移住者がいる。ディアスポラは言語教育、舞踊団体、出自意識の継承を通じてネットワークを維持する。
言語
アディゲ語(西部方言群)とカバルダ語(東部方言群)は北西コーカサス語族に属し、子音の豊富さと語形の膠着性・多接辞的構造を特徴とする。隣接するアブハズ語・アバザ語とも近縁である。かつて黒海南岸に話者をもったウビフ語は20世紀に消滅した。ソ連期にはキリル文字表記が整備され、トルコなどではラテン文字化も試みられた。
歴史概観
中世にはビザンツやジェノヴァ商人の交易に関与し、草原世界の勢力とも往来した。16~18世紀にかけてイスラームが浸透し、軍事的伝統と結びついた。エジプトではマムルーク軍団にチェルケス人出身者が多く、ブルジー朝(1382–1517)期には政治・軍事の中枢を担った。18~19世紀、ロシア帝国のコーカサス進出に対して長期の抵抗が続き、1864年の終結後に大規模な追放・移住が発生した。
1864年の追放とディアスポラの形成
戦争終結に伴い多数が黒海を渡ってオスマン領へ移送・移住し、アナトリア、バルカン、レヴァントに新たな集住地が成立した。犠牲者数や移送の実態をめぐる評価は国際的議論の対象であり、記憶と認識をめぐる運動がディアスポラ社会で今も続く。
社会構造と慣習法
伝統社会は家系と氏族的結合を基礎とし、名誉・客人歓待・年長者尊重を重んじる「アディゲ・ハブゼ」によって規律された。身分的には首長層、貴族層、自由民、従属民の区分があり、婚姻や紛争解決は仲介者・評議によって調停される。現代では国家法の下で再解釈されつつも、儀礼・礼節の規範として機能している。
宗教と信仰世界
17~18世紀にスンナ派イスラームが社会全体に浸透したが、地域によっては古層の自然崇拝やキリスト教的要素の記憶が残る。ディアスポラではモスクや協会が教育・福祉の拠点となり、宗教行事は共同体の結束を支える。世俗化も進むが、宗教はアイデンティティの重要な柱である。
文化・物質世界
騎乗・射撃・剣技の伝統は舞踊・祭礼に反映し、男女の優雅な身のこなしで知られる。衣装「チェルケスカ」は胸の薬莢入れ飾りが象徴的で、刃物「シャシュカ」は騎兵文化を体現する。口承叙事や婚礼儀礼、客人歓待の膳立てなどが文化資源として継承され、ディアスポラでも舞踊団体や文化会館を中心に再生産が行われる。
記憶政治と現代
19世紀の戦争・追放をめぐる歴史認識は、国家間関係やディアスポラの権利要求と結びつき、記念日やデモンストレーション、学術会議の開催を通じて国際世論に訴えられてきた。黒海東岸(ソチ周辺)における歴史景観の扱いは象徴的争点となり、文化財・墓地・地名の保全や表象のあり方が問われている。
国家・地域社会との関係
ロシア連邦内のアディゲ共和国、カバルダ・バルカル共和国、カラチャイ・チェルケス共和国では、言語教育・文化復興・観光開発が進められる一方、経済格差や若年層の流出が課題である。トルコやヨルダンでは市民社会の一構成員として活発に活動し、スポーツ・軍・行政・学術など各分野で人材を輩出する。国境を越えた連携はデジタル時代に拡大し、母語教材の共有や家系調査、記憶のアーカイブ化が加速している。
学術研究の動向
チェルケス人研究は言語学・民族誌・歴史学・記憶研究を横断する分野である。方言連続体の記述やウビフ語資料の整理、19世紀史料(ロシア語・オスマン語・欧州諸語)の再検討、ディアスポラ世代間でのアイデンティティ形成、ジェンダーと儀礼の再編といったテーマが中心である。地域アーカイブの開放や口述史の収集が進み、当事者共同体と研究者の協働が新たな成果を生みつつある。
用語と表記
日本語では「チェルケス人」「サーカシアン」「アディゲ」が併用される。学術文献では地名・人名の転写が揺れるため、ロシア語・トルコ語・英語等の原綴も参照するのが通例である。現地共和国名・行政区分は現行の公称に従い、ディアスポラ諸国では国内法に則した団体名称を用いる。