セイロン島|紅茶産地と交易史が息づく多彩な島

セイロン島

セイロン島は現在のスリランカ島を指す地理名称で、インド亜大陸の南東に位置し、インド洋航路の結節点として古代から海上交易で繁栄してきた。古代ギリシア・ローマ世界では「Taprobane」と呼ばれ、中世イスラーム商人の記録にも頻出する。16世紀以降、ポルトガル語「Ceilão」、オランダ語「Ceylon」を経て英語の「Ceylon」が一般化し、日本語のセイロン島もこれに由来する。島内ではシンハラ人を主体に、タミル人、ムーア人など多様な人々が暮らし、上座部仏教を中心にヒンドゥー教、イスラーム、キリスト教が共存してきた。地勢は中央高地と海岸平野に大別され、季節風に支配される気候が稲作やスパイス栽培、のちの茶業を支えた。

地理と自然環境

島は中央部に高地がそびえ、そこから放射状に河川が流れる。季節風(モンスーン)が顕著で、西南モンスーン期と北東モンスーン期で降雨域が変動するため、沿岸部と内陸高地で生業が分化した。肥沃な沖積平野は古代から灌漑稲作に利用され、高地は後世のコーヒー・茶・ゴムなどのプランテーションに適した。こうした自然条件がセイロン島の歴史的役割を規定し、海陸双方の交流を促進した。

先史・古代の展開

先住のヴェッダ系狩猟採集民の痕跡ののち、紀元前1千年紀半ばに北インド方面からシンハラ人系の移住が進み、アヌラーダプラ王国が成立した。上座部仏教はパーリ語聖典の受容とともに定着し、王権・法・学術の基盤となる。古代地中海世界はセイロン島を香料・宝石の供給地かつ中継地として把握し、インド洋海域世界の一角に位置づけた。

中世国家と南インドの影響

10~11世紀には南インドのチョーラ朝が一時的に島を制圧し、のちにポロンナルワ王国が興隆した。中世後期にはコーッテ王国やキャンディ王国が並立し、内陸高地の勢力は海岸部の交易を通じて国際網と結びついた。寺院・灌漑施設・石造建築は文化的成熟を示し、のちの世界遺産群の基層となった。

ヨーロッパ勢力の進出

1505年頃にポルトガル勢が到来し、海岸部の要地と香辛料交易を掌握した。17世紀にはオランダ東インド会社がポルトガル勢を駆逐し、要塞都市と港湾を拠点に支配を拡大、ついで18世紀末以降はイギリスが接収して植民地化を進めた。1815年、英国はキャンディ王国を編入し、島全域の統合を完成させる。以後、セイロン島は大英帝国のインド洋戦略と商品生産体制の中核となった。

プランテーション経済の形成

19世紀半ば、コーヒー栽培は「コーヒーさび病」により壊滅的打撃を受け、代替として茶が導入された。紅茶は「Ceylon tea」として世界的評価を獲得し、ゴム・ココヤシと併せたプランテーション複合が成立した。鉄道・道路網は内陸高地と港湾をつなぎ、労働力として南インドからの移住タミル人が広く動員された。この過程は土地制度や社会構成を変容させ、セイロン島の近代経済を形づくった。

港湾都市と海上ネットワーク

コロンボやゴールはインド洋海域の寄港地として機能し、ムスリム商人やヨーロッパ商会の活動で中継交易が発展した。季節風航海術に基づく定期性は、香料・宝石・象・象牙、後には茶・ゴム・ココナツ製品などの流通を安定させ、都市の多文化性を強めた。沿岸の要塞建築や倉庫群は植民地期の遺構として今日に伝わる。

社会と宗教

セイロン島はシンハラ人とタミル人を主要構成員とし、ムーア人やバーガー(欧亜混血)なども居住する。宗教は上座部仏教が多数派で、タミル人のヒンドゥー教、沿岸部のイスラーム、植民地期に拡がったキリスト教が併存する。王権儀礼と仏教、村落共同体の慣行法、植民地法の重層が、独自の法文化を形成した。

独立と国名の変遷

1948年、英国自治領として独立し、1972年に共和制へ移行して国名を「Sri Lanka」と改めた。以後、国名としての「セイロン」は公的には用いられなくなったが、紅茶など一部の商品名・地名には歴史的呼称が残る。日本語でセイロン島と呼ぶ場合、地理・歴史的文脈を指すことが多く、現代国家名としてはスリランカと区別される。

名称・表記の補足

  • 固有名「Lanka」「Sri Lanka」はサンスクリット系伝統に由来する。

  • 「Ceylon」はポルトガル語形「Ceilão」に端を発し、欧語圏で普及した。

  • 学術・歴史叙述ではセイロン島を地理的呼称、スリランカを現代国家名として使い分ける。