ジェファソン|独立宣言を起草した第三代大統領

ジェファソン

ジェファソンは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍したアメリカの政治家・思想家であり、独立期を代表する人物である。彼はアメリカ独立宣言の主たる起草者であり、第3代アメリカ合衆国大統領として、新しい共和国の方向性を形作った。啓蒙思想に影響を受けた自然権思想と共和主義を掲げ、王権や貴族制を批判し、市民の自由と平等を擁護した点で、近代政治思想史においても重要な位置を占める。一方で、多数の奴隷を所有していた事実は、彼の思想と実践の矛盾として近年しばしば議論の対象となっている。

生い立ちと青年期

ジェファソンは1743年、バージニア植民地の地主階級の家に生まれ、法律を学んで弁護士として活動した。植民地の名門校で古典語や哲学を学んだ経験は、後の政治思想形成に大きな影響を与えたとされる。彼はやがて植民地議会の議員となり、対英関係が悪化するなかで、課税政策への抗議や自治拡大を主張する急進的な立場に傾いていった。こうした政治経験を背景に、彼は大陸会議に代表として送り出され、アメリカの独立運動に深く関わることになる。

アメリカ独立宣言の起草

1775年に始まったアメリカ独立戦争のさなか、第2回大陸会議は、13植民地の正式な独立宣言文の作成を決定した。ここで主たる起草者に選ばれたのがジェファソンであり、彼はフィラデルフィアに滞在しながら短期間で草案をまとめ上げた。宣言の序文では、人間は生まれながらにして一定の権利を持つという自然権思想が明確に示され、政府は人民の同意に基づくという原理が打ち出された。こうした内容は、同時代のパンフレットであるコモン=センスや、イギリス経験論・社会契約論の系譜とも響き合い、アメリカ独立の理論的基盤を提供した。独立宣言は、対英決裂を世界に示す外交文書であると同時に、後のアメリカ合衆国の独立を象徴するテキストとして広く受容されていく。

政治家としての歩みと大統領職

ジェファソンは独立後、バージニア州知事を務めたのち、駐フランス公使としてヨーロッパに派遣され、フランス革命前夜の動向に接した。この経験は、王政批判や共和主義への共感をさらに強める要因となったとされる。アメリカ帰国後、彼は初代大統領ワシントン政権で国務長官となるが、連邦政府の権限拡大を志向するハミルトンらと激しく対立し、やがて反政権勢力の指導者として「共和党」(後の民主共和党)の中心となった。その後副大統領を経て1801年に大統領に就任したジェファソンは、連邦政府の小さな政府路線、農本的共和主義、言論・信教の自由の尊重などを掲げた。また、1803年のルイジアナ買収は、広大な西部を獲得して国土を一挙に拡大する決定であり、のちの「西漸運動」の前提を形作った。

思想と奴隷制の矛盾

ジェファソンは、人間の平等と自由をうたう思想家として知られる一方、生涯を通じて多くの黒人奴隷を所有していたことで批判の対象ともなっている。彼は奴隷制度を「望ましくない制度」とみなし、将来的な廃止の必要性に言及したものの、急進的な解放には慎重であり、自身の経済基盤を支える奴隷制から完全には離れなかった。このギャップは、独立を掲げた植民地支配者層が、同時に先住民や黒人に対して支配的立場を維持したという、アメリカ史の構造的問題を象徴する事例とみなされる。近代以降、トマス=ペインや他の急進的思想家と比較しつつジェファソンを評価する議論も行われ、奴隷制との関係は彼の評価をめぐる中心的論点の一つである。

歴史的意義とその後の評価

ジェファソンは、独立前夜の思想運動からボストン茶会事件、レキシントンの戦いを経て展開したアメリカ独立運動を、理念の面から支えた人物である。彼の残した文書や書簡は、新国家の政治原理を明文化し、後の民主主義や立憲主義の発展に強い影響を与えた。一方で、奴隷制や先住民政策における限界は、彼の思想が当時の社会的条件に束縛されていたことを示している。今日、アメリカ独立戦争アメリカ独立宣言を扱う歴史研究において、ジェファソンは理想と矛盾を併せ持つ指導者として、政治史・思想史・社会史の交点から多角的に検討され続けている。