シヴァージー
シヴァージーは17世紀西インドのマラーター系有力武将であり、のちにマラーター王国を築いた人物である。デカン地方の山岳地帯を拠点にゲリラ戦と城砦戦を駆使し、ムガル帝国やデカン諸スルタン朝に対抗する勢力を形成した。彼の活動は、後世のインド民族運動においても「ヒンドゥーの王権」や自立の象徴として語られてきた。
生涯と出自
シヴァージーは17世紀前半、デカン地方のシヴネル城で生まれたとされる。父シャハージーはデカン諸国に仕える武人で、複雑な主従関係のなかで領地を転々とした。母ジジャーバーイーは敬虔なヒンドゥー教徒で、叙事詩や神話を通じて若きシヴァージーに英雄的理想を教え込んだと伝えられる。
デカン地方の政治状況
シヴァージーの成長期、南インドではかつての大国ヴィジャヤナガル王国が崩壊し、ビジャープルなどデカン諸スルタン朝が覇権を争っていた。同時に北インドではムガル帝国が拡大し、のちに皇帝アウラングゼーブの下でデカンへの圧力を強めていく。こうした多極的状況は、地域勢力が台頭する余地を生み出し、後のインド地方勢力の台頭へとつながった。
マラーター王国の建設
シヴァージーは若くして父から与えられた城砦を足がかりに、周辺の山岳城や村落を掌握して自立を進めた。彼は「スワラージャ(自らの支配領域)」の思想を掲げ、在地のマラーター農民や戦士層を結集させたとされる。のちにムガル側で行われたジズヤの復活などイスラーム政権の宗教政策は、ヒンドゥー教徒の不満を高め、シヴァージーの権威を支える一因ともなった。
ムガル帝国との抗争
シヴァージーはデカン諸スルタン朝だけでなく、ムガル帝国とも激しく争った。奇襲や夜襲を多用する山岳ゲリラ戦で、ムガル側の将軍や総督に大きな損害を与えたことが知られる。同時代、ムガル朝はタージ=マハルなど壮麗な建築を擁する大帝国であったが、その軍事的優位をもってしてもシヴァージーを完全には屈服させられなかった。
アグラ幽閉と戴冠
一時期シヴァージーは和平交渉のためムガル皇帝の宮廷に赴き、アグラで事実上の幽閉状態に置かれたと伝えられる。その後、巧妙な策を用いて脱出し、再びデカンの本拠に戻ることに成功した。この経験ののち、彼はライガド城で正式に王として即位し、マラーターの主権国家としての体裁を整えた。
統治と軍事制度
シヴァージーは山岳城砦網を重視し、ライガドやプラタープガドなどの拠点を整備して機動的な防衛体制を築いた。騎兵を中心とする軍制を採用し、略奪の抑制や村落保護を命じたとされ、在地社会から一定の支持を集めた。また、同時代のムガル朝宮廷のムガル絵画やデカン諸侯の文化を参照しつつも、自らの宮廷儀礼や称号を工夫し、独自の王権を演出した。
宗教観と社会政策
シヴァージーはヒンドゥー教徒として尊敬される一方、イスラーム寺院や商人に対しても一定の保護を与えたとされる。寺院やブラーフマナへの寄進を行う一方で、実務官僚にはさまざまな出自の人材を登用し、実利的な統治を志向した。西インドのラージプート諸侯やラージプート絵画に見られる王の英雄像とも通じる形で、自らを地域社会の守護者として位置づけた点も特徴である。
歴史的意義
シヴァージーの死後、王位は子孫に継承され、やがてマラーター王国は18世紀のインド政治に大きな影響力を持つ連合勢力へ発展した。彼が築いた山岳拠点と在地勢力の結合は、巨大帝国に対抗しうる地方王国のあり方を示したものと評価される。近代以降、シヴァージーはインド史の中で「自立と抵抗」の象徴として語られ続けている。