シャン=ド=マルスの虐殺
シャン=ド=マルスの虐殺は、1791年7月17日にパリのシャン=ド=マルス広場で起こった流血事件である。立憲王政を支持する穏健派指導部が、国王ルイ16世の退位を求める民衆の請願集会を武力で弾圧し、多数の死傷者が出た。この出来事は、1789年のバスティーユ牢獄襲撃以来続いてきた革命の「自由の祭り」のイメージを一変させ、穏健派と急進派の決定的な分裂をもたらした転機として位置づけられる。
シャン=ド=マルス広場と事件の舞台
シャン=ド=マルス広場は、当時セーヌ川沿いに設けられていた軍事演習場であり、大規模な祝典や政治集会の会場としてもしばしば利用された場所である。1789年の革命の進行にともない、国民的祝祭や軍隊の閲兵が行われる象徴的な公共空間となり、多くのパリ市民にとって「国民の意思」を表現する場と意識されていた。その舞台で流血が起こったことは、革命が自らの内部矛盾によって暴力を向ける段階に入ったことを象徴している。
ヴァレンヌ逃亡事件と政治的背景
1791年6月に起こったヴァレンヌ逃亡事件によって、立憲王政の前提であった国王への信頼は大きく揺らいだ。すでに1789年には封建的特権の廃止や人権宣言の採択、さらに同年10月のヴェルサイユ行進による王一家のパリ移送など、王権を制約する革命的措置が重ねられていたが、国王の逃亡未遂は「憲法の守護者」とされていた王が新体制を内心では否定していることを露呈させたのである。
国民議会の多数派とラファイエットら穏健派は、それでもなお立憲王政を維持しようとし、国王の逃亡は「誘拐」であると弁護した。これに対し、急進共和派は国王を信頼し得ない存在とみなし、退位と共和国樹立を主張した。その中心となったのがパリの政治結社ジャコバン=クラブやコルドリエ派であり、都市民衆と手を結んで王政廃止請願運動を組織していった。
虐殺当日の経過
請願署名と民衆の集結
1791年7月17日、パリ市内の急進派は、新憲法のもとで国王を復位させることに反対し、ルイ16世の退位と共和国樹立を求める請願書に署名するため、シャン=ド=マルス広場で大規模な集会を呼びかけた。広場には職人や労働者、下層市民を中心とする群衆が集まり、一部は反王政的な演説や象徴的儀式を行った。革命初期からの高揚感や、紙幣アッシニアの乱発などによる物価高騰への不満も重なり、雰囲気は次第に緊張を帯びていった。
戒厳令と国民衛兵の発砲
パリ市長バイイと国民衛兵総司令官ラファイエットは、王政廃止要求が革命の秩序を脅かすと判断し、集会を解散させるため戒厳令を布告した。市庁舎には三色の三色旗とともに赤旗が掲げられ、これは「治安当局が武力行使を認めた」ことを示す信号とされた。国民衛兵部隊がシャン=ド=マルスに進軍し、散会命令に従わない群衆に対して発砲を行った結果、多数の死傷者が出た。この武力弾圧によって、穏健派指導部は民衆から「自由の弾圧者」として激しい憎悪を買うことになった。
政治勢力への影響
ジャコバン=クラブと穏健派の分裂
シャン=ド=マルスの虐殺の結果、政治結社内部の分裂は決定的となった。立憲王政支持の議員たちはジャコバン本部から離脱し、後にフイヤン派と呼ばれる穏健ブルジョワ政党を形成する。一方、ジャコバン本部に残った急進派は、王政廃止と共和政を明確に掲げる勢力へと変質していった。この対立の背後には、財産資格選挙やル=シャプリエ法による労働者組織の禁止など、ブルジョワ的秩序を守ろうとする層と、より急進的な民主化と社会的平等を求める層との利害の違いがあった。
王政への不信と世論の変化
同時に、この事件は王政への不信をいっそう強める契機ともなった。国王夫妻、とくにマリ=アントワネットは、すでに浪費や外国勢力との関係をめぐって激しい批判の的となっており、大恐怖のなかで広がった陰謀論と結びつけられていた。武力弾圧のニュースは、地方においても革命指導部と王政双方への不信を増幅させ、政治的中間層の動揺を招いたと考えられている。
フランス革命史における位置づけ
シャン=ド=マルスの虐殺は、革命勢力が初めて自らの民衆支持基盤に対して大規模な暴力を行使した事件として重要である。これは、1789年の高揚期に見られた「人民の自発的運動」と「ブルジョワ指導部」の協調が崩れ、秩序維持を重視する指導層と、社会的・政治的要求をさらに押し進めようとする下層民衆との対立が露わになった瞬間であった。のちに1792年以降の王政廃止や共和政の成立、さらには恐怖政治へと続く急進化の過程は、この事件で示された溝が決定的に深まっていく過程として理解することができる。また、財政危機のもとで発行されたアッシニアの価値下落や、聖職者再編をめぐる聖職者基本法の対立など、制度改革と社会不安が絡み合うなかで起こった点でも、革命史の構造的矛盾を映し出す事件といえる。
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