シク王国
インド北西部パンジャーブに18世紀末から19世紀半ばにかけて成立したシク王国は、ムガル帝国衰退後の混乱のなかで台頭した地域勢力のうち、もっとも強力で組織化された国家である。シク王国は、シク教徒の共同体であるカルサを基盤にしつつ、ヒンドゥー教徒やムスリム官僚も取り込んだ多宗教国家として統治を行い、イギリス東インド会社の北西インド進出を一時的に食い止めた。ランジート・シングによって建設されたこのシク王国は、軍事・財政・行政を近代化したインド先住政権の代表例であり、その盛衰はインド近代史と帝国主義の展開を理解するうえで重要な位置を占める。
成立の背景とパンジャーブの政治状況
18世紀のパンジャーブ地方では、ムガル帝国の権威が弱まり、アフガン系のドゥッラーニー朝や諸地方政権が覇権を争っていた。この権力の空白を突いて台頭したのが、シク教徒の武装共同体カルサに由来する諸勢力であり、彼らは「ミスル」と呼ばれる半独立的な軍事集団を形成していた。これらミスルの連合のなかから頭角を現したのが、のちにシク王国を築くランジート・シングである。
ランジート・シングによる統一と即位
若きランジート・シングは、周辺ミスルを次々と制圧し、1799年にパンジャーブの要都ラホールを占領した。1801年、彼はラホールで戴冠し、パンジャーブの「マハーラージャ」を称してシク王国の建設を宣言した。都ラホールは行政と軍事の中心となり、アムリトサルはハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)を擁する宗教的中心として位置づけられ、これらの都市を結ぶ支配体制によってシク王国はパンジャーブの広域支配を固めていった。
統治構造と宗教政策
シク王国の統治は、シク教徒優位でありながらも多宗教的性格をもっていた。高位の軍人・官僚にはヒンドゥー教徒やムスリムも登用され、徴税や司法ではムガル帝国以来の慣行法とペルシア語文書文化が継承された。シク教の一神教的倫理や平等主義は、ヨーロッパ近代の宗教批判を行ったニーチェや実存主義者サルトルの議論と比較されることもあり、信仰共同体に基づく国家という点で独自の政治思想史的意義をもつ。
軍事改革と近代的な常備軍
ランジート・シングはシク王国を維持するうえで軍事力の近代化を最重要課題とし、ヨーロッパ人将校を招聘して常備軍を再編した。カルサ軍は歩兵・騎兵・砲兵から成る近代的軍隊へと変貌し、火砲や小銃の整備、要塞建設が進められた。そのなかには、近代ヨーロッパで発達したボルト機構をもつ小銃技術の導入が意識されており、火力の集中と訓練の規律によってシク王国軍はインド有数の精強な軍隊となった。
- ヨーロッパ式隊列と戦術の採用
- 砲兵部隊と城塞の重視
- 銃器・ボルト式小銃の整備による火力の強化
対英外交と北西インドの勢力均衡
シク王国は、デリー以東に勢力を広げるイギリス東インド会社と、北西から侵入するアフガニスタン勢力との間で微妙な均衡を保つ必要に迫られていた。1809年のアムリトサル条約で、ランジート・シングはサトレジ川以南への進出を断念する代わりに、東インド会社からパンジャーブ支配の承認を得た。この結果、シク王国はアフガニスタンとの境界地帯をめぐる戦争を展開しつつも、対英関係では一時的な協調と相互承認を維持することになった。
ランジート・シング死後の動揺と内紛
1839年にランジート・シングが死去すると、強力な指導者を失ったシク王国では後継をめぐる権力闘争が激化した。宮廷内の派閥抗争と暗殺が相次ぎ、軍の政治介入も進んだ結果、統治の一体性は急速に失われていった。こうした内紛は、北西国境の安全保障を求めるイギリス東インド会社にとって、パンジャーブへの干渉と介入を正当化する口実となった。
シク戦争と王国の滅亡
1845年、緊張の高まるなかで第一次シク戦争が勃発し、激戦の末、シク王国は敗北して領土の一部と独立性を大きく損なった。続く1848〜49年の第二次シク戦争では、イギリス側が近代的砲兵と組織力を活かして決定的勝利を収め、パンジャーブは最終的に英領に併合された。こうしてシク王国は消滅し、最後の君主ドゥリープ・シングは退位させられてイギリスに連行されることになった。
シク王国の歴史的意義
シク王国は、ムガル帝国崩壊後のインドにおいて、先住支配層が軍事・行政・財政を近代化して帝国主義勢力に対抗しえた希有な事例である。その軍事改革には、ヨーロッパ流の砲兵運用やボルト式小銃を含む近代兵器体系の受容が見られ、世界史的には軍事技術移転の一例とも位置づけられる。また、宗教共同体に基礎を置く国家としての経験は、近代以降のシク教徒アイデンティティやパンジャーブ地域の民族運動を理解する手がかりともなり、信仰と国家、宗教的平等主義と世俗政治の関係を考えるうえで、ニーチェやサルトルの思想と並置しうる重要な歴史素材である。さらに、武装共同体カルサを近代的常備軍へと再編しつつ、火器やボルト機構を備えた装備を整えた経験は、インド軍事史における技術と制度の接合という視点からも注目される。