サールナート|インド初転法輪の舞台となった聖地

サールナート

サールナートはインド北部のウッタル・プラデーシュ州ワーラーナシー近郊に位置する仏教の聖地である。釈迦が成道後に最初の説法(初転法輪)を行った地として知られ、古名はイスィパタナ(Isipatana)、また鹿野苑(Mrigadava)とも称された。ここで説かれた「Four Noble Truths」と「Noble Eightfold Path」は、その後の教団形成と教義体系の礎となった。マウリヤ朝のアショーカ王は当地に石柱や僧院を造営し、後代にはグプタ朝期の洗練された仏像群が制作された。現在、遺跡は考古学的に整備され、現地の博物館には獅子柱頭や名作の坐仏像などが収蔵される。

地理と名称

サールナートはワーラーナシー中心部からおよそ10km北東に位置し、ガンジス平原の都市・交通網と密接に結びついて発展した。名称の由来は「鹿の主」を意味するサールガナート(Sāranganātha)に求められることが多い。古名のIsipatanaは「仙人(イーシ)たちの降り立つ場所」を意味し、Mrigadava(鹿野苑)は鹿の保護地という記憶を伝える。これらの名称は、宗教的伝承と景観の特質が長期にわたって重なり合ってきた事実を示す。

初転法輪と説法の核心

釈迦は苦行を共にした五比丘に対し、極端な快楽主義と苦行主義を退ける中道と、「Four Noble Truths」すなわち苦・集・滅・道を示した。実践面では「Noble Eightfold Path」を説き、正見から正定に至る八つの修行段階を提示した。初転法輪は教義の抽象理論にとどまらず、出家共同体(サンガ)の成立と布教の出発点を意味し、以後の律・教典の編纂や信徒共同体の拡大へとつながった。

アショーカ王の事業と石柱

マウリヤ朝のアショーカ王は、仏教保護の政策の一環としてサールナートに石柱(Pillar)と僧院施設を整備した。柱頭のライオン像は後世にインドの国章となり、その基部の「Dharma Chakra」は国旗にも採用される象徴性を帯びた。石柱に刻まれた勅令は、法(Dharma)に基づく統治理念を示し、王権と教団の協働が宗教空間の形成を支えたことを物語る。

主要遺構

  • ダーメーク・ストゥーパ(Dhamekh Stupa):円筒形の巨大塔身が現存し、装飾帯には幾何学文様や花文が見られる
  • チョウカンディー・ストゥーパ(Chaukhandi Stupa):五比丘との再会伝承を記念する高塚状の遺構
  • アショーカ石柱:柱身は断片的だが、柱頭獅子像の原品は博物館に展示される
  • 僧院跡(Vihara):方形中庭をもつ伽藍配置が発掘で確認され、僧団生活の具体像を伝える

グプタ朝の仏教美術

グプタ朝期のサールナートでは、透明感のある薄衣表現と柔らかな肉身表現を特色とする仏像が制作された。衣の縁を最小限の線で示す技法、穏やかな瞑想的面相、均整のとれた比例感は「サールナート様式」と総称され、北インドの仏教美術を代表する。これらはガンダーラやマトゥラーの伝統を継承しつつ統合し、のちの東南アジアや東アジアにも美術的影響を及ぼした。

発掘と学術研究

19世紀後半から近代考古学が本格化し、遺構の平面や建材、塑像片、碑文資料が記録・出土した。20世紀にはArchaeological Survey of India(ASI)が保存と公開を進め、遺跡公園化と博物館整備が並行して進展した。発掘成果は初期仏教教団の空間構成、巡礼路の形成、王権と僧団の関係史を立体的に再構築する手がかりを提供した。

巡礼空間としての展開

近現代のサールナートには、スリランカ系のMahabodhi Societyが建立したMulagandha Kuti Viharaをはじめ、タイ、チベット、日本など各伝統の寺院が点在する。園地には鹿が飼育され、古代の鹿野苑の記憶が視覚的に再解釈されている。年間を通じて出家者や在家信徒、研究者、観光客が訪れ、宗教実践と文化遺産観光が交差する空間が形成されている。

文献と巡礼記の証言

パーリ仏典の「Dhammacakkappavattana Sutta」や律蔵にはIsipatanaの名が現れ、初期教団史の基礎史料となる。中国の巡礼者FaxianやXuanzangの旅行記は、僧院数や仏塔の規模、儀礼の様子を具体的に伝え、中世における国際的な聖地ネットワークの存在を示す。文献と考古学資料の相互補完により、聖地の変遷像が精緻化してきた。

広域ネットワークの中の位置

サールナートはルンビニー(Lumbini)、ブッダガヤ(Bodh Gaya)、クシナガラ(Kushinagar)と並び立つ仏教巡礼の主要拠点である。ワーラーナシーの宗教都市としての受容力、ガンジス流域の交易路、北インドの王権の保護が重なり、聖地は長期にわたり存続した。周辺都市との結節点であったことが、教団の布教と文化伝播を持続させる原動力となった。