サーマーン朝
サーマーン朝は9世紀後半から10世紀末にかけてトランソクシアナとホラーサーンを支配したイラン系イスラーム王朝である。形式上はアッバース朝の藩属であったが、実際には自立的な統治を行い、ブハラを都として行政と学芸を発展させた。イスラームの秩序を維持しつつペルシア語文芸を保護し、新ペルシア語文化圏の形成に大きく寄与した点で特筆される。
成立と拡大
王朝名は祖とされるサーマーン・フダーに由来し、その子孫が9世紀にかけて地方統治で頭角を現した。ターヒル朝の後背を利用しつつ勢力を伸ばし、イスマーイール・サーマーニー(r.892–907)が決定的な基盤を築く。900年のバルフの戦いでサッファール朝を破ってホラーサーンを掌握すると、ブハラを中心にサマルカンド、ニシャープールなどを結ぶ広域支配が成立した。以後、ナスル2世(r.914–943)期に文化的最盛を迎える。
統治と軍事
サーマーン朝はアラビア語の法学・神学権威を尊重しつつ、宮廷と官司でペルシア語を積極的に用いた。首都ブハラにはディーワーン(官庁)が整備され、徴税・治安・司法が分掌された。軍事面ではトルコ系グラーム(奴隷軍人)を採用して機動戦力を確保したが、10世紀後半には彼らの台頭が内政干渉を招き、王権の脆弱化を加速させた。
経済基盤と交易
アム川流域の灌漑農業とオアシス都市の手工業が富を支えた。ブハラやサマルカンドの工房では陶器・織物・製紙が発達し、銀ディルハム貨が広く鋳造された。これら貨幣はヴォルガ交易やカスピ海経路を通じて北方にも流入し、スカンディナヴィアの出土貨幣群にもサーマーン期のものが多数確認される。こうした銀流通は、イスラーム世界とルーシの交易圏を媒介する重要な要素であった。
文化の保護と新ペルシア語
サーマーン朝の宮廷は詩人ルーダキーをはじめ文人を庇護し、新ペルシア語の定着と洗練を促した。史詩『シャー・ナーメ』の構想が醸成されたのもこの時代で、後のガズナ朝期の完成に先立って素材と語りの基盤が整えられた。宗教面ではスンナ派正統(とくにハナフィー法学)が重視され、都市のマドラサやモスクで学芸が活況を呈した。法と社会規範の面ではイスラーム法とシャリーアの運用が日常生活の枠組みを与えた。
都市景観と建築
ブハラのサーマーン廟に代表される煉瓦建築は、装飾積みと幾何学文様の調和で知られる。単純な素材を複雑に組み合わせ、光と影を織りなす外壁は地方色と普遍性を兼ね備えた。都市ではスーク(市)と回廊が発達し、キャラヴァンサライが幹線路に配され、シルクロードの往来を支えた。
学術と史料
この時代のブハラは学術の集積地であり、地誌や年代記が相次いで編まれた。ナルシャヒー『ブハラ史』は都市の伝承・政治・経済を詳細に伝える基本史料で、改訂ペルシア語版は後代にまで読まれた。併せて貨幣学・考古学の知見が王朝像を補強し、サマルカンド(アフラシアブ丘)などの発掘が宮廷文化と都市構造の解明に資している。
周辺政権との関係
サーマーン朝は西にアッバース朝の名目的宗主権を認めつつ、自主的外交を展開した。南東ではのちに強勢化するガズナ勢力と境を接し、西方イラン高原ではポスト・サッファール勢力との調整が続いた。西イスラーム世界の動向(たとえばイベリアのコルドバの繁栄)とも交易路を通じて間接的に結びつき、広域経済の一角を占めた。
衰退と滅亡
10世紀後半、宮廷内の派閥抗争と軍人勢力の伸長、さらにステップからのカラハン朝の圧迫が王権を動揺させた。東北から侵入したカラハン軍は999年にブハラを占領し、同時期にホラーサーンはガズナ朝の支配下に入る。残存王族の一部は反攻を試みたが成功せず、サーマーン朝の政権はここに終焉した。
陶器と書写文化の特色
白地に黒字の銘文を巡らすサーマーン期の陶器は、語句の祝詞や道徳句を装飾化し、器形と書の融合を示す。製紙業の振興は書写と学術の普及を後押しし、法学・説話・詩文の伝播が容易になった。
王朝の意義
サーマーン朝はイスラーム世界の枠内でイラン的伝統と新ペルシア語文芸を復興させ、以後のガズナ朝やセルジューク朝、さらにはティムール朝に至る宮廷文化のプロトタイプを提示した。宗教的正統と地域的多様性の調停、都市経済の成熟、長距離交易の結節点としての役割は、中世ユーラシアの歴史構造を理解する鍵である。