サイモン委員会|イギリスのインド統治改革調査団

サイモン委員会

サイモン委員会とは、イギリス政府がインド統治制度を検討するために設置した「インド法制委員会」であり、委員長ジョン・サイモン卿の名をとってこう呼ばれる。第一次世界大戦後、インド統治法1919年に基づき、約10年後に憲政制度を再検討することが約束されており、その結果として1927年に派遣された。サイモン委員会の全員が白人のイギリス人議員でインド人を含まなかったことから、インドでは強い反発が起こり、「Simon go back」のスローガンのもと、全国的な抗議運動が展開された。これに対するインド側の憲政構想の提示や大衆運動の激化は、のちのインド独立運動を大きく前進させる契機となった。

設立の背景

第一次世界大戦後、イギリスはインドに対する自治拡大を約束し、インド統治法1919年によって州レベルでの「二元統治(ダイヤーキー)」が導入された。しかし、実際には重要分野を総督と官僚機構が握り続け、インド人政治家は限定的な権限しか持てなかった。この不満の高まりの中で、ガンディーが指導する非協力運動や、ローラット法に対する抗議、アムリットサール事件などが起こり、イギリス統治への不信は決定的となった。こうした情勢のもとで行われた憲政制度の再検討がサイモン委員会であり、その性格はインド人にとって自らの政治的地位を左右する重大問題であった。

委員会の構成と特徴

サイモン委員会は7名のイギリス人議会議員から構成され、その全員が白人であり、インド人は一人も含まれていなかった。委員長ジョン・サイモンは自由党系の政治家で、他の委員も与野党から選ばれてはいたが、あくまで宗主国側の視点からインド統治を検討する機関であった。この「インド人抜きのインド憲政調査」という構図が、インド世論に「我々の運命をなぜ我々抜きで決めるのか」という強い反発を生み、委員会はインド到着の時点から激しい抗議に直面したのである。

インド側の反応とボイコット

サイモン委員会の構成が明らかになると、インド国民会議派や多くの政治勢力は即座にボイコット方針をとった。委員会が各地を視察する際には、「Simon go back」のプラカードを掲げた群衆が駅や街頭に集まり、しばしばハルタール(同時ストライキ・閉店)やデモが行われた。こうした抗議行動には、サティヤーグラハの思想に基づく非暴力抵抗の要素があり、ヒラーファト運動以後に培われたヒンドゥー教徒・イスラーム教徒の共同戦線も一部で見られた。他方で、一部の保守派や王侯勢力は委員会と協力し、イギリス側に自らの利害を訴えようとしたため、インド社会内部の路線対立も浮き彫りとなった。

ネール報告書とインド側憲政構想

サイモン委員会をボイコットしたインド国民会議派は、「自分たちの憲法は自分たちで作るべきだ」として、弁護士モーティラル・ネルーを中心に憲政案の起草に取り組み、1928年にいわゆる「ネルー報告書」をまとめた。これは、インドを自治領(ドミニオン)とし、連邦制の下で広範な自治権を認めることを提案したものであった。この動きは、ガンディーのヒンドゥ=スワラージの思想、大衆の非暴力抵抗運動と結びつき、「完全独立」を掲げる急進的潮流の台頭を後押しした。

報告書の内容とロンドン政府の対応

サイモン委員会は各地での視察と公聴会を行い、1930年に最終報告書を提出した。報告書は、州レベルでの二元統治を廃止し、州政府により広い自治を与える一方、中央政府や軍事・外交などの重要分野はイギリス側の強い統制下に置くことを提案した。また連邦制への移行構想も示されたが、インド側が求めていた明確な自治領化や独立の約束は含まれていなかった。そのため、報告書はインドの主要政治勢力から「不十分」と評価され、ロンドン政府はその後、円卓会議など別の場でインド側指導者と協議を続けることになった。

独立運動史上における位置づけ

サイモン委員会は、法制度上の改革案としては限定的な意義しか持たなかったが、その存在自体がインドの民族運動を新段階に押し上げた点で重要である。委員会の「インド人抜き」の性格は、イギリス統治の本質を多くの人々に自覚させ、サティヤーグラハに基づく非暴力抵抗や、のちの非協力運動・非暴力不服従運動の展開を促した。さらに、ネルー報告書などインド人自身による憲政案の作成を促進し、インドが自立した政治主体として自らの国家像を構想する契機となった点で、サイモン委員会はインド独立運動史における重要な転換点であったと評価される。