コンスタンツ公会議|大シスマ収束と教会改革の分岐点

コンスタンツ公会議

コンスタンツ公会議は、1414年から1418年にかけてドイツ南西部の都市コンスタンツで開かれた普遍公会議である。最大の目的は、14世紀末から続いた教会大分裂(いわゆる大シスマ)を終息させ、教会の首位権と規律を立て直すことにあった。公会議はローマ=ドイツ王ジギスムントの強い後援のもとに招集され、当時並立していた複数の教皇を処理し、新教皇マルティヌス5世の選出に至った。また、ベーメンの改革者ヤン・フスとエルモラ・プラハ(プラハのエラスムス、通称ジェローム)の審問・火刑を通じて、教会改革の方向性と限界を明確にした点でも後世に大きな影響を及ぼした。さらに、公会議至上説を示す「Haec Sancta」や、定期的な公会議開催を求める「Frequens」などの法令を採択し、教会統治の原理と実務改革を試みた点に特色がある。もっとも、聖職売買や複数叙任といった日常的弊害の抜本的解決には至らず、後の宗教改革期に再燃する課題を残した。

招集の背景

14世紀末、ローマとアヴィニヨンに二人の教皇が並立し、続いてピサ公会議(1409年)が第三の教皇を生むなど混乱が深まった。王侯・都市・大学は権威の統一を希求し、ローマ=ドイツ王ジギスムントはキュリアと諸勢力の調停者として、自らの帝国的威信と秩序維持のために公会議招集を主導した。こうしてコンスタンツ公会議は、信仰の一致・教会統治の改革・分裂解消という三つの課題を掲げて開会した。

会期・運営と主要人物

コンスタンツ公会議は1414年に開幕し、教皇庁の高官、各王国の使節、修道会、大学の神学者が大挙して参加した。審議は個々の人物ではなく「国別」(ドイツ・フランス・イタリア・イングランド)の票決単位で進められ、政治バランスと学術権威が交錯した。パリ大学出身のジャン・ジェルソンやピエール・ダイイなどの神学者は、教会法と良心に基づく秩序回復を説き、王侯は自国教会の利害を調整しつつ普遍教会の統一に寄与した。教皇側は複雑な思惑を抱え、ヨハネス23世の逃亡・逮捕といった事件も起き、公会議の主導権と正統性がたびたび試された。

決議と法令

公会議は早期に「Haec Sancta」を可決し、普遍公会議が信仰と改革の必要に応じて全教会に対して権威を持ち、ローマ教皇も従うべきと宣言した。続く「Frequens」は、公会議を定期開催(一定間隔での招集)とする原則を掲げ、非常時の対処に留まらない恒常的改革の枠組みを整えた。教皇問題では、ピサ系のヨハネス23世を廃位し、ローマ系のグレゴリウス12世は合法的手続により辞任を承認、アヴィニヨン系のベネディクトゥス13世は拒否を続けたため廃位された。そのうえでコンクラーヴェを経てオッドーネ・コロンナがマルティヌス5世に選出され、分裂は収束した。なお、公職売買や任地不在などの弊害には抑制的法令が示されたが、実施と監督の面で限界を抱えた。

  • 信仰・統治の原理:Haec Sancta(公会議至上の宣言)
  • 制度改革の装置:Frequens(定期公会議の義務づけ)
  • 分裂の終息:三教皇の整理とマルティヌス5世の選出

フス事件とベーメンへの波紋

ボヘミアの説教師ヤン・フスは、聖書至上と聖職者の道徳的刷新を唱え、教会の富と権力の濫用を批判した。彼はジギスムントの与えた安全通行証をもってコンスタンツ公会議に赴いたが、拘束・審問され、異端として火刑に処された(1415年)。翌年には盟友ジェロームも同様の最期を遂げた。これによりベーメンは激昂し、プラハの四カ条を掲げる運動が拡大、やがてフス戦争へと発展した。結果として、公会議の統一回復は成功したものの、地域社会の宗教的・民族的緊張を刺激し、王権・都市・貴族・農民が絡み合う長期の紛争を誘発した。

教会政治と国家の関係

コンスタンツ公会議は、普遍教会の一体性と各王国の主権的利害のあいだで妥協点を探る場であった。ジギスムントは「帝国」と「キリスト教世界」の仲裁者を自任し、諸国の代表は国益を踏まえつつ神学的議論を展開した。公会議至上説は、ローマ教皇の首位権を否定するものではないが、非常時には会議の権威が教皇を規律し得ると論じた点で画期的であった。のちにローマ教会は首位権を再強調し、第五ラテラノ公会議で会議主義の潮流は後退するが、コンスタンツでの経験は近代の代表制と法手続の観念に影響を残した。

意義と限界

第一に、コンスタンツ公会議は大分裂を終わらせ、キリスト教世界の公的儀礼と外交秩序を回復した。第二に、普遍公会議の権能と定期開催の理念を提示し、制度改革の道をひらいた。第三に、フス事件は信仰と良心、聖書解釈、教会規律の関係をめぐる論点を露わにし、以後の改革運動と対抗宗教改革にまで響く遺産を残した。とはいえ、財政構造の是正、人事腐敗の根絶、司教区統治の改善など実務面の改革は部分的に留まり、恩給制度や特権の網の目は温存された。その結果、16世紀にマルティン・ルターらが提起する抜本的な問題提起に対し、中世末の改革努力は十分な防波堤となり得なかった。

開催都市コンスタンツの役割

ボーデン湖畔の要地コンスタンツは、帝国の交通・商業の結節点として大量の巡礼者・使節・学者を収容し得た。宿泊・供給・警備の負担は巨額に上り、都市は市場規制や物価統制を通じて混乱を抑えた。国際会議の受け皿としての都市機能は、公会議の円滑な審議と象徴的演出(行列・典礼・公開討論)を支え、政治神学の舞台装置として重要な役割を果たした。

史料と記録

コンスタンツ公会議の記録は、会議行為録(Acta)をはじめ、参加者の覚書・説教・書簡、都市の会計簿、年代記に広く散在する。ウルリヒ・リーヘンタールの年代記は会期の情景や人物群像を生き生きと伝え、大学人の神学論争は学術講壇の文化を示す。これらの史料は、分裂終息の実相、公会議至上説の論理、そして大衆の宗教感情が交錯する現場を再構成する鍵である。史料批判は、法令の真正・伝達過程・地域差の把握を通じて、公会議の「成功」と「限界」を具体的に測る手がかりを与える。