ケープ植民地
ケープ植民地は、アフリカ南端の喜望峰周辺に成立したヨーロッパ列強の植民地であり、当初はオランダの商業拠点として始まり、その後イギリスの植民地として拡大した。インド洋と大西洋を結ぶ要衝に位置したこの地域は、香辛料貿易やインド航路を支える寄港地として重要視され、ヨーロッパ勢力の海上進出と帝国主義的支配の拠点となった。さらに、ヨーロッパ系入植者であるブール人とアフリカ先住民社会との関係、奴隷制や人種間関係、そして後の南アフリカ史へと連なる政治的・社会的展開を理解するうえで欠かせない存在である。
成立と地理的背景
ケープ植民地が成立した背景には、喜望峰がヨーロッパとアジアを結ぶ海上交通の中継点であったという地理的要因がある。大西洋からインド洋へと航行する船舶は、アフリカ南端で補給と修理を必要とし、特にポルトガル、オランダ、イギリスなど海洋国家にとって、この地点の確保は大航海時代の戦略課題となった。喜望峰周辺は温帯性の気候と肥沃な土地を有し、農業生産が可能であったため、船舶のための食糧供給基地として利用する構想が生まれた。このような海上交通と地理的条件の結合が、植民地建設の前提となったのである。
オランダ東インド会社の拠点建設
ケープ植民地の具体的な始まりは、1652年にオランダ東インド会社(VOC)がテーブル湾に補給基地を建設したことに求められる。ヤン・ファン・リーベックの指揮のもと、会社の社員たちは要塞や倉庫、農地を整備し、インド航路を往復する船に新鮮な水や野菜、肉類を供給した。当初は小規模な会社直営の基地であったが、やがて退役社員や自由市民に土地を与えて農業経営を行わせる政策が採られ、自営農民(フリーバーガー)が周辺地域に広がっていった。この過程で、先住民コイコイとの交易や衝突が生じ、土地と家畜をめぐる紛争が激化していった。
社会構造と経済
ケープ植民地は、多様な出自をもつ住民から成る社会となった。オランダ系を中心とするヨーロッパ人入植者、アフリカ各地やアジアから連れてこられた奴隷、コイコイやサンといった先住民、さらに後代にはフランス系ユグノー移民などが混在し、複雑な人種・民族構成が形成された。経済的には、小麦やぶどうの栽培、牧畜など農業が主であり、農産物は寄港する船舶や地域市場に供給された。また奴隷貿易によって、東アフリカやインド洋世界から奴隷が移入され、農園や都市労働に従事したことは、後の人種差別体制の萌芽ともなった。
- ヨーロッパ系入植者(ブール人・後のアフリカーナー)による自営農業と牧畜
- アジア・アフリカからの奴隷労働に依存する農園経営
- 先住民の土地喪失と従属化をともなうフロンティア拡大
イギリス支配への転換
ケープ植民地は、ナポレオン戦争期の国際情勢の変化によってイギリス帝国の支配下へ移行した。1795年、革命期のフランスに従属することを恐れたイギリス政府は、対仏戦略の一環としてケープを占領し、海軍基地として利用した。一時的にオランダ系政権に返還されたものの、1806年にイギリス軍が再占領し、その後正式にイギリス領として編入される。イギリスは行政制度の整備や英語の導入、法制度の改編などを進め、オランダ時代の慣行を徐々に置き換えていった。この過程で、オランダ系入植者は自らの慣習と信仰が脅かされていると感じ、不満を募らせていく。
ブール人社会と先住民との対立
ケープ植民地のなかでも内陸に進出したブール人農民は、広大な土地を求めて移動を繰り返し、遊牧的な牧畜経営を行った。彼らは自らを神に選ばれた民とみなし、先住民との関係を支配と従属の枠組みで捉える傾向が強かった。イギリス支配のもとで奴隷制廃止が進められると、ブール人は労働力喪失と賠償の不十分さに不満を抱き、1830年代以降、グレート・トレックと呼ばれる大規模な内陸移動を行い、インド洋側や北部に独自の共和国を建設しようとした。この動きは、先住民社会との武力衝突を伴い、南部アフリカの政治地図を大きく変化させる要因となった。
自治拡大と南アフリカ史への位置づけ
ケープ植民地は、19世紀後半になると、議会制の導入や自治権の拡大を通じて、名目的には自治植民地としての性格を強めていった。他方で、ダイヤモンドや金鉱の発見は、地域に新たな経済的価値をもたらし、帝国主義時代の列強間競争を激化させた。イギリスとブール人共和国との対立は南アフリカ戦争へと発展し、その帰結としてケープは他のボーア共和国とともに統合され、1910年に南アフリカ連邦が成立する。こうして、かつての補給基地に過ぎなかった植民地は、アフリカ南部における白人支配体制の中核へと変貌し、のちのアパルトヘイト体制に連なる歴史的土壌を形成したのである。