クロムウェル
オリヴァー=クロムウェルは、17世紀イギリスの政治家・軍人であり、王政を一時的に打倒して共和政を樹立した人物である。清教徒的敬虔さと強い使命感をもち、イングランド内戦で新型軍隊を率いて勝利し、後には護国卿として事実上の独裁権力を握った。彼の統治は、議会主権や宗教的寛容の拡大に貢献した一方で、アイルランド制圧など暴力的側面も大きく、評価は賛否が鋭く分かれる。イギリス近代国家形成の過程において、クロムウェルは避けて通れない中心人物である。
生涯と出自
クロムウェルは1599年、イングランド東部ケンブリッジシャーの下級ジェントリの家に生まれた。家柄は決して最高位ではなかったが、地方社会では一定の影響力をもつプロテスタント貴族層であった。若い頃の政治的活動は目立たないが、敬虔な清教徒として聖書研究と自己省察に没頭したと伝えられる。1628年には議会に選出され、王権と議会の緊張が高まる中で、王権に批判的な立場に立つようになった。やがてチャールズ1世の専制的な課税や宗教政策に反発し、のちの内戦で重要な役割を担う準備期間となった。
ピューリタン革命と議会派の軍事的指導者
1640年代に入り、スコットランドとの戦争や財政危機を背景としてチャールズ1世と議会の対立が激化し、ピューリタン革命と総称される内戦が勃発した。クロムウェルは当初地方の騎兵隊指揮官であったが、規律のとれた兵士を育成し、信仰に支えられた強力な軍隊を組織した。やがて彼は議会派の主力である「新型軍隊(ニュー・モデル・アーミー)」の中核指揮官となり、ナースビーの戦いなどで王党派軍を破る決定的勝利をおさめた。この過程で、議会内の穏健派よりも急進的な軍事勢力が影響力を増し、クロムウェル自身も政治の前面に立つようになった。
大抗議書・長期議会と共和国樹立
内戦の前提には、チャールズ1世の専制を批判した大抗議書や、国王と対立しながらも解散されなかった長期議会の存在があった。内戦終結後、国王処遇をめぐっては妥協的な和解案を求める議会と、より急進的な軍隊との対立が表面化した。クロムウェルは当初、国王との交渉に一定の期待を寄せたが、チャールズ1世が再戦を企てたことなどから、最終的には国王処刑を容認する立場へ傾いた。1649年には国王が処刑され、イングランドは共和政(コモンウェルス)として王なき国家体制へ移行し、クロムウェルはその軍事的支柱となった。
護国卿政体と国内統治
共和政期の政治は、議会内部の対立や軍隊の発言力の強さから混乱が続いた。クロムウェルは秩序回復の名目で議会を解散させ、1653年には「護国卿」として統治権を引き受ける政体を打ち立てた。護国卿政体は憲法文書に基づく成文政体であり、一定の議会制・権利保障を含みつつも、実際には軍事力に支えられた強権的統治であった。宗教面では国教会を維持しながらも、プロテスタント諸派には比較的広い寛容を認め、イギリスの宗教各派の共存を図ろうとした。一方、道徳規制や安息日の厳守など、清教徒的規律を社会全体に求めたため、国民の間には息苦しさも生じた。
短期議会とスコットランド・アイルランド政策
内戦期には財政・軍事問題を理由に召集されたものの、すぐさま解散された短期議会や、その後の政治過程は、王権と議会・軍隊の複雑な力関係を示している。対外的には、クロムウェルは内戦で王党派の拠点となったアイルランドと、チャールズ2世を支持したスコットランドの反乱を徹底的に鎮圧した。アイルランド遠征では都市の包囲戦で多くの住民・守備兵が殺害され、その記憶は現在まで深い怨恨として残っている。スコットランドでも軍事的勝利をおさめ、ブリテン島全体を軍事的に掌握したが、これらの政策は「信仰の戦士」としての側面と、暴力的征服者としての側面を併せ持つものであった。
歴史的評価と影響
クロムウェルの死後、王政はチャールズ2世の即位によって復活し、彼の体制は長く続かなかった。しかし、ピューリタン革命の経験や、議会と王権の関係をめぐる激しい対立は、その後の立憲君主制成立の重要な前段階となった。彼の統治は、専制王政から議会政治への移行を促し、宗教的多元性を広げる一方で、軍事力に依拠した強権支配と植民地支配の暴力性をも示した点で、現在も議論の対象である。議会派と王党派の対立を軸とする17世紀イギリス史を理解するうえで、クロムウェルは政治・宗教・軍事のあらゆる側面で中心に位置する人物であり、その評価をめぐる議論は今なお続いている。