クセルクセス1世|アケメネス朝ペルシア第5代王

クセルクセス1世

アケメネス朝ペルシアの第5代王として知られるのがクセルクセス1世である。紀元前486年に父ダレイオス1世の後を継ぎ、広大な領土を治める立場を手にした。母はアトッサとされ、彼は王位継承権をめぐる複雑な宮廷事情を乗り越え、巨大帝国の頂点に立った。ペルシア戦争においてギリシア世界に遠征軍を送り込み、テルモピュライの戦いやサラミスの海戦を指揮したことでその名が歴史に刻まれている。しかし、その攻勢が途中で頓挫したことから、彼の治世は帝国拡大という野望と、現実的困難との間に揺れ動く時代でもあった。

即位と統治の背景

父ダレイオス1世は各地の反乱を平定すると同時に道路網の整備や行政制度の確立を進め、アケメネス朝の基盤を固めた。その跡を継いだクセルクセス1世は、まずバビロニアやエジプトで起きた反乱に対処しつつ、帝国内の諸地域を統制する必要に迫られた。中央集権を強化するため、サトラップ(総督)制度の運用を継続し、各地の動向を厳しく監視したが、一方で王族の権威を示すべく壮大な建築事業にも力を注いだ。

ギリシア遠征

帝国の西端に位置するイオニアの都市国家群は、ダレイオス1世の時代から繰り返し反乱を起こしていた。クセルクセス1世はその動きを封じるべくギリシアへ大規模な遠征軍を派遣した。紀元前480年にテルモピュライの戦いでスパルタ軍を破り、一時はアテナイを占領してアクロポリスを焼き討ちした。しかしサラミスの海戦ではギリシア艦隊の巧みな戦術に翻弄され、大軍を維持することが困難となったため、深追いを避ける形で遠征は終わりを迎えた。

反乱と政治対策

大軍をもってしても長期の遠征には限界があったことは、帝国内外での反乱リスクを高めた。エジプトやバビロニアなど、従属地域ではペルシアの支配に不満を抱く住民が多く、遠征にかかる負担も重なっていたと推測される。強硬策で鎮圧を図ったクセルクセス1世であったが、部下の統率や地方総督への権限委譲を巡る問題は残り、アケメネス朝の統治機構には亀裂が生じ始めていた。

建築事業と宮廷文化

  • 首都ペルセポリスを大規模に造営し、壮麗な宮殿群と式典の場を拡充した。
  • 儀式や祝祭を通じて王権の正統性を強調し、多民族国家の統合を図った。
  • 王の権威を示すための彫刻やレリーフを多用し、アケメネス朝の繁栄を後世に伝えようとした。

没後の評価と影響

クセルクセス1世が紀元前465年頃に暗殺された後、アケメネス朝の版図は依然として広大だったが、内部の統一をめぐる問題が顕在化した。ギリシア側の史料では強権的・傲慢な王として描かれることが多いものの、実際には広域を安定的に支配する手法を模索し、統治制度を継承かつ拡張した点も評価される。彼の遠征は失敗に終わったが、アケメネス朝が東西にまたがる大帝国としての存在感を示したことは間違いなく、その遺産は後のヘレニズム時代やローマ帝国期にも大きな影響を及ぼしたと言える。