ギリシア独立戦争
ギリシア独立戦争は、オスマン帝国の支配下にあったギリシア人が、国家としての独立を勝ち取るために戦った戦争で、一般に1821年から1829年まで続いたとされる。キリスト教徒であるギリシア人がイスラーム教を奉じるオスマン帝国の支配から離脱しようとしたこの闘争は、近代的な民族国家形成の一例であり、同時代のフランス革命やナポレオン戦争後のウィーン体制と深く結びついている。また、この戦争はヨーロッパにおけるロマン主義の高まりと「フィルヘレニズム(親ギリシア感情)」を背景として、列強の世論と外交を動かした点でも重要である。
歴史的背景
ギリシア独立戦争の背景には、数世紀にわたるオスマン支配と、それに対するギリシア人社会の不満があった。ギリシア人は、正教会を核とする宗教共同体を維持しつつ、商業や航海の分野で活躍し、富を蓄えた一部の上層民は西欧の啓蒙思想や民族主義思想に触れた。19世紀初頭には、秘密結社フィリキ・エテリア(Filiki Eteria)がロシア領オデッサなどで組織され、ギリシア人の武装蜂起と独立を計画するようになった。
オスマン支配とギリシア社会
- オスマン支配のもとでギリシア人は「ラヤー」として身分的に従属し、重税に苦しんだ。
- 一方で、海運業や商業に従事するギリシア人はエーゲ海や地中海で活動し、経済力と教育水準を高めた。
- コンスタンティノープルのギリシア人エリート(ファナリオティ)は、帝国行政に関与しつつも民族意識を育んだ。
蜂起の勃発
1821年、フィリキ・エテリアの指導者イプシランティがドナウ公国で挙兵したことをきっかけに、ペロポネソス半島や中部ギリシアで大規模な蜂起が広がり、本格的なギリシア独立戦争が始まった。農民・町民・聖職者・コロコトロニスら山岳ゲリラ指導者が参加し、初期にはトリポリツァ陥落などの成功を収めたが、同時に宗教対立と報復による虐殺も発生し、戦争は激しい宗教戦争の様相を帯びた。
戦争の展開と内紛
ギリシア側は臨時政府を樹立し、憲法を制定するなど近代国家を意識した政治制度を整えたが、地方勢力や指導層の利害対立から内紛が繰り返された。戦況が膠着する中、オスマン側はエジプト総督メフメト・アリーの軍隊を動員し、近代的な軍制を備えた援軍がギリシア本土と島嶼部を攻撃したため、ギリシア側は劣勢に追い込まれていった。
チオス島虐殺と国際世論
1822年のチオス島虐殺では、多数のギリシア人住民が殺害・奴隷化され、その惨状は西ヨーロッパに大きな衝撃を与えた。画家ドラクロワによる絵画「チオス島の虐殺」は、ギリシア人の悲劇を象徴的に表現し、詩人バイロンなど多くの知識人がギリシア支援を訴えた。こうしたフィルヘレニズムは、イギリスやフランス、ロシア帝国など列強の世論と政策に影響を与え、やがて外交的・軍事的介入の土台となった。
列強の介入とナヴァリノ海戦
1820年代半ば、イギリス・フランス・ロシアは、オスマン帝国との均衡を維持しつつギリシア問題を調停しようとし、ギリシア人への自治付与を提案した。しかし交渉は難航し、やがて列強は武力介入に踏み切る。1827年のナヴァリノの海戦では、三国連合艦隊がオスマン・エジプト連合艦隊を撃破し、地中海における軍事的主導権を握った。この勝利により、ギリシア側の軍事的敗北は回避され、戦争の流れは大きく変化した。
独立の承認とギリシア王国の成立
ナヴァリノ海戦後、ロシアは対オスマン戦争に踏み切り、オスマン帝国は外交的に追い詰められた。1830年のロンドン議定書で、列強はギリシアの独立を原則として承認し、続く会議でその領域と制度が具体化された。最終的にバイエルン王家のオットーが国王として迎えられ、ギリシア王国が成立した。こうしてギリシア独立戦争は、列強の仲介と軍事力を背景に終結し、ギリシアは主権国家として国際社会に登場した。
ギリシア独立戦争の歴史的意義
ギリシア独立戦争は、キリスト教世界の古典文明の継承者とみなされたギリシア人が、イスラーム帝国から自立するという図式で理解され、西欧のロマン主義やフィルヘレニズムを刺激した。同時に、この戦争は、バルカン諸民族の民族運動の先駆けとして、のちのセルビアやブルガリアなどの独立運動にも影響を与えた。さらに、ギリシア問題をめぐる列強の介入と外交交渉は、オスマン帝国領をいかに処理するかという東方問題の出発点と位置づけられ、19世紀ヨーロッパ国際政治の重要な局面となった。