キプチャク=ハン国|サライを都とする金帳汗国

キプチャク=ハン国

キプチャク=ハン国は、モンゴル帝国のジョチ家がユーラシア草原西部に築いた政権で、14世紀以降は「金帳汗国」とも呼ばれた。ヴォルガ川流域から黒海北岸、クリミア、キエフ周辺に至る広域を支配し、遊牧勢力の軍事力と都市の交易収益を併せ持つ二重構造を特徴とした。創始期の中心人物はバトゥで、13世紀半ばにルーシ諸公国を屈服させて朝貢体系を確立し、西方世界の政治・経済均衡を大きく変えた政権である。

成立と拡大

成り立ちはジョチ家の分封にさかのぼる。チンギス・ハンの長子ジョチの系譜を継ぐバトゥが西方遠征(1236–1242)を主導し、ヴォルガ・ブルガールの征服、キエフ(1240)陥落、ザレゴルスクやガリツィア=ヴォルィーニの制圧を経て、ハン国の基盤が整備された。初期段階ではモンゴル大ハーンへの宗主権を認めつつも、実質的には自立性が強く、草原地帯の遊牧軍団とヴォルガ下流の都市群を結ぶ補給・税収システムが形成された。

領域と社会構造

支配領域はヴォルガ川下流からカスピ海北岸、黒海北岸の草原ステップに広がった。移動型の遊牧幕営を核に、定住民の居住するオアシス都市や河川都市を接合した多民族社会であった。テュルク語話者(キプチャク系)とモンゴル系エリートの通婚・同化が進み、言語・文化は次第にテュルク化した。遊牧貴族は軍役と徴税権を担い、都市住民は手工業と交易で国家財政を支えた。

政治制度とハン位継承

政治はジョチ家諸支流の合議と実力によって維持された。ハン位は世襲を原則としつつも有力諸王子の支持と軍事力が不可欠で、クーデタや権力交替が周期的に起こった。宮廷には宰相級の官人や書記、徴税官が配置され、ヤサ(成文・不文の規範)と慣習法が併存した。地方にはタマガチ(徴税監督)やダルガチが派遣され、朝貢・関税・市場税が財政の柱となった。

経済と交易ネットワーク

黒海からカスピ海、ヴォルガ水系を貫く水陸交通は、毛皮・穀物・蜂蜜・奴隷・金属製品・絹・香辛料の流通を活性化した。イタリア系商人(ジェノヴァ、ヴェネツィア)はクリミアの港湾を拠点に商館を置き、関税と保護の代償としてハン国財政に寄与した。貨幣はサライの造幣で大量に鋳造され、ディルハム型の銀貨が広域で通用した。キャラバンサライと関所が整備され、通行の安全が商業繁栄の前提となった。

宗教と文化—イスラーム受容

初期は信仰の寛容が保たれ、正教会・イスラーム・仏教・シャーマニズムが並存した。やがてベルケの時代にイスラーム改宗が進み、ウズベク・ハン(在位1313–1341)の治世にはイスラームが支配層の国家宗教として定着した。イスラーム法学者やカーディーが都市に配置され、ワクフ(寄進財)とモスクが増設され、アラビア文字文化が官文書・学芸の基盤となった。

ルーシ支配と「タタールのくびき」

キプチャク=ハン国はルーシ諸公に対し、権威の付与(ヤルルク=勅許)と引き換えに朝貢・軍役を課した。諸公はサライへ出頭し、ハンの裁可を得て統治を継続した。これによりルーシの政治文化には徴税技術や軍制の側面で草原的要素が流入し、長期にわたる従属構造は後世「タタールのくびき」と呼ばれた。ただし一方で、モスクワ大公国はこの枠組みを利用して勢力を伸長し、後の自立の土台を築いた。

サライの都と都市文化

首都サライ(後にサライ・アル=ジャディード)はヴォルガ中下流の交易結節点として繁栄した。市場には東西の商品が集まり、多言語の商人・書記・学者・宗教者が往来した。建築は土造・煉瓦造を基調に、宮殿・モスク・バザール・居住区が区画され、灌漑と堤防が都市の持続可能性を支えた。文化的にはテュルク=イスラーム世界とルーシ世界の接点として混淆的であった。

軍事—騎射と動員

軍事の中核は騎射に熟達した遊牧騎兵で、複合弓・軽装騎兵の機動力が戦略の要であった。単位編成は十進法の伝統を引き継ぎ、季節移動と牧地管理が兵站を左右した。補助戦力として征服地の歩兵・工兵や、都市の防衛部隊が動員され、河川・湿地戦では工学的技術が重視された。

内紛・分裂・外圧

14世紀中葉、ハン位継承をめぐる内紛と黒死病の打撃で統合は弛緩した。トクタミシュは一時的に再統一を実現したが、ティムールの遠征(1391・1395)が決定的打撃となり、下流域の都市は荒廃した。以後、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国などに分立し、北方ではモスクワの台頭が圧力を強めた。

衰退と崩壊の過程

15世紀から16世紀にかけて、ヴォルガ・カマ流域の勢力均衡は変化し、モスクワ国家は1480年の「ウグラ河の対陣」を転機に実質的従属から離脱した。さらに16世紀半ばにはカザン・アストラハンがロシアに併合され、黒海北岸の覇権もオスマン帝国やクリミア勢力の影響下に再編された。こうしてキプチャク=ハン国の政治的実体は消滅へと向かった。

文化的・言語的影響

ハン国の支配は行政語彙・軍事用語・貨幣制度などを通じて周辺世界に痕跡を残した。テュルク語の広がりは草原地帯における通商・外交の標準化を促し、コサック共同体の形成や辺境の武装自営にも長期的影響を与えた。宗教的にはイスラーム共同体がヴォルガ下流からタタール社会へと定着し、後世の文化的自画像に組み込まれた。

史料と研究

同時代史料にはロシア年代記、ムスリムの地理書・年代記(イブン・バットゥータらの旅行記を含む)、西欧の書簡・使節報告がある。近代以降は造幣出土・考古学・地名学・文書史料の総合研究が進み、都市サライの位置と変遷、貨幣流通の広域性、遊牧と定住の相互依存関係がより精密に復元されている。最新の議論では、ジョチ・ウルスの名称・範囲・下位政権の位置づけを再評価する潮流がある。

年表(主要項目)

  1. 1236–1242:バトゥの西方遠征、ヴォルガ・ブルガールおよびルーシ諸公国の制圧
  2. 1240:キエフ陥落、朝貢体制の確立
  3. 13世紀後半:サライ発展、黒海—ヴォルガ交易が隆盛
  4. 1313–1341:ウズベク・ハン期、イスラーム国家として制度化
  5. 1391・1395:ティムールの遠征により決定的打撃
  6. 15世紀:諸汗国に分立(カザン、アストラハン、クリミアなど)
  7. 1480:ウグラ河の対陣、モスクワの実質的自立
  8. 16世紀半ば:カザン・アストラハンのロシア併合、旧領域の再編

名称と用語の注意

本政権は「ジョチ・ウルス」「金帳汗国」とも表記され、文脈や時期により強調点が異なる。「キプチャク」は草原の地理区分とテュルク系部族を指し、民族名・地名・政権名が重なり合う。研究上は、ジョチ家の宗主権と草原諸勢力のネットワークとして把握することが重要である。