オランダ領東インド
オランダ領東インドは、17世紀から20世紀半ばにかけてオランダが現在のインドネシア地域を支配した植民地体制である。香辛料やコーヒーなどの交易品をめぐる競争の中で成立し、多島海世界を軍事力と商業ネットワークで押さえ込むことによって維持された。のちのインドネシア国家の領域・行政区画・社会構造に大きな影響を残した点で、世界史上きわめて重要な植民地である。
成立の背景
オランダ領東インドの起源は、17世紀初頭に設立された東インド会社(VOC)にさかのぼる。VOCは香辛料貿易の独占をめざし、ポルトガル勢力を駆逐しながらバンダ諸島やモルッカ諸島を武力で制圧した。1619年にはジャワ島西部にバタヴィア(現在のジャカルタ)を建設し、アジア貿易網の拠点とした。こうした商業拠点の連鎖が、やがて島々全体を統合する植民地支配へと発展していく。
東インド会社支配から直轄植民地へ
18世紀末になると、ヨーロッパでは産業革命やナポレオン戦争が進行し、VOCは財政難と腐敗によって存続不能に陥った。このため1799年にVOCは解散し、その資産と権利はオランダ本国政府に移管された。19世紀前半には、ジャワ戦争などを経て本国政府による植民地統治が整備され、ようやくオランダ領東インドという一体的な政治単位が形作られていく。ここでは本国官僚と在地支配層が結びついた二重構造の統治が特徴となった。
強制栽培制度と植民地経済
19世紀前半、オランダ本国は財政再建のため、ジャワ島を中心に強制栽培制度を導入した。これは農民にサトウキビやコーヒーなど輸出向け作物の栽培を義務づけ、収穫物を低価格で政府に納めさせる制度であり、オランダ国家財政を支える一方、農民に大きな負担を課した。やがて制度は批判を受けて縮小し、民間資本によるプランテーション経営が拡大する。こうして植民地主義的な収奪構造のもとで、輸出農業と鉱山開発が進み、世界市場と結びついた植民地経済が形成された。
社会構造と多民族社会
オランダ領東インドの社会は、多民族・多宗教が共存する複雑な構造を持っていた。支配層にはヨーロッパ人官僚・軍人のほか、在地の王侯や貴族層(プリヤイ)が位置づけられ、その下に農民や都市住民が広く分布した。また、中国系商人は税の徴収や流通を担い、経済活動に重要な役割を果たした。宗教面ではイスラームが多くの島で広がりつつ、ヒンドゥー教やキリスト教も併存し、宗教ネットワークが反植民地運動の基盤となることもあった。
抵抗運動と民族主義の形成
19世紀のジャワ戦争やアチェ戦争をはじめ、各地では武力抵抗が繰り返されたが、近代兵器をもつオランダ軍がこれを鎮圧した。しかし20世紀に入ると、教育を受けた現地エリートが増加し、民族団体や政治結社が次々に誕生する。ブディ・ウトモやサレカット・イスラームなどの組織は、のちのインドネシア独立運動の母体となり、植民地支配を批判するナショナルな言説を育てていった。こうした動きは、世界各地で高まったナショナリズムの潮流とも呼応していた。
世界史における位置づけ
オランダ領東インドは、アジアにおける欧米植民地帝国の一角として、18~20世紀の世界経済と国際政治に組み込まれていた。香辛料やゴム、石油などの供給地として、欧州工業国やイギリス領インド、日本などと結びつきつつ、列強の勢力均衡の対象ともなった。第二次世界大戦期には第二次世界大戦と日本軍の占領を契機にオランダ支配が大きく揺らぎ、戦後のインドネシア独立へと道が開かれる。こうして同地域は、植民地支配とその克服という近現代世界史の大きなテーマを体現する場となったのである。