オスマン帝国の第一次世界大戦参戦
オスマン帝国の第一次世界大戦参戦は、1914年に勃発した欧州戦争を中東・イスラーム世界へ拡大させ、帝国崩壊と戦後の国民国家形成につながる決定的な転機である。19世紀以降「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど衰退していたオスマン帝国は、列強の圧力と領土喪失に直面しつつ、ドイツ帝国との接近を通じて国力の回復と領土の挽回を図り、やがて中央同盟国側として世界大戦に参戦した。
衰退と危機の中のオスマン帝国
19世紀のオスマン帝国は、ギリシア独立やエジプトの分離、露土戦争や列強の干渉を通じて徐々に領土と影響力を失っていった。国内では行政・軍事・財政の近代化を目指す改革が進められたが、保守派との対立や列強の介入により十分な成果を上げられず、帝国の統合は次第に揺らいだ。特に20世紀初頭のバルカン戦争では、ヨーロッパ側の領土の大半を失い、その挫折が大戦期の対外政策に深い影を落とした。
青年トルコ革命と統一と進歩委員会
1908年の青年トルコ革命により、立憲制を掲げる統一と進歩委員会が政権の主導権を握ると、帝国は再建と近代化を急ぐことになった。しかし議会政治は不安定で、バルカン戦争の敗北を経て軍人を背景としたエンヴェル、タラート、ジャマルらによる少数指導体制が成立した。彼らは強い国家主義と領土回復の意思を持ち、対外的にはドイツへの接近を強めていった。
ドイツ帝国との接近と秘密同盟
オスマン帝国がドイツに接近した背景には、イギリス・フランス・ロシアとの対立関係があった。イギリスはエジプトを事実上支配し、ロシアは黒海・バルカンで勢力拡大を図っていたのに対し、ドイツはバグダード鉄道建設や軍事顧問団の派遣を通じてオスマン帝国の近代化を支援していた。第一次世界大戦が勃発すると、統一と進歩委員会の指導部は中立維持と参戦のあいだで揺れ動いたが、1914年8月2日、ドイツ帝国との間で秘密同盟条約を締結し、事実上中央同盟国側に立つ道を選んだ。
ゴーベン・ブレスラウ事件と海軍問題
参戦に傾く重要な要因となったのが、ドイツ巡洋艦ゴーベンとブレスラウの問題である。これらの艦は地中海で英仏艦隊に追われ、ダーダネルス海峡を突破してイスタンブルに逃れた。オスマン政府は彼らを自国海軍に編入すると宣言し、名目上はオスマン旗を掲げることになったが、実際にはドイツ人乗組員と指揮官がそのまま残った。また、イギリスがオスマン帝国発注の最新鋭戦艦を押収したことで対英感情が悪化し、親独感情を一層強める結果となった。
黒海攻撃と正式な参戦
1914年10月末、ゴーベンらはオスマン海軍の一部として黒海に出撃し、ロシアの港湾や施設を砲撃した。この黒海攻撃は、統一と進歩委員会の指導部、とりわけエンヴェル戦争相の主導で行われ、政府全体の正式な合意プロセスは曖昧なまま進められたとされる。この行動に対してロシアは11月1日にオスマン帝国へ宣戦布告し、続いてイギリスとフランスも宣戦した。こうしてオスマン帝国は中央同盟国側として第一次世界大戦に参戦し、スルタンはイスラーム世界に向けて「聖戦」を呼びかける宣言を発した。
参戦目的と期待された成果
オスマン帝国指導部が参戦に踏み切った目的には、バルカン戦争で失った領土の回復や、ロシアに奪われたカフカス地域への進出、イギリスの支配するエジプトやスエズ運河への影響力拡大などが含まれていた。また、スルタン=カリフの権威を利用し、ロシア・イギリス・フランス支配下のムスリムを動員して反乱を促すことで、列強の支配体制を揺さぶるという期待も存在した。しかし、財政難や軍備の遅れ、輸送・補給体制の脆弱さは深刻であり、戦争が長期化するほど帝国の限界が露呈していった。
中東戦線の拡大と帝国崩壊への過程
オスマン帝国の参戦により、大戦はガリポリ半島、メソポタミア、パレスチナ、カフカスなどを含む広大な中東戦線へと拡大した。ガリポリの戦いでは激戦の末に連合軍の上陸を撃退することに成功したものの、メソポタミアでは英軍の前進を止められず、シリア・アラビアではアラブ反乱によって後方が揺さぶられた。内政面では非常時体制の名のもとに統治が強権化し、民族問題や少数派への弾圧が激化し、帝国の結束はむしろ弱まっていった。
戦後秩序とトルコ共和国への連続性
最終的にオスマン帝国は敗戦国として講和交渉に臨み、戦後の秘密協定や講和条約により領土は分割され、旧オスマン領の多くはイギリスやフランスの委任統治領となった。帝国中心部のアナトリアでは民族運動が高まり、ムスタファ・ケマルらの指導の下で独立戦争が展開され、やがてトルコ共和国が成立する。したがってオスマン帝国の第一次世界大戦参戦は、帝国の最終的な崩壊と、その後の中東国際秩序・トルコ国家形成の出発点として位置づけられる。