ウラービー革命|エジプト近代化を揺るがす蜂起

ウラービー革命

ウラービー革命は、1881年から1882年にかけてエジプトで起こった軍人と民衆による反乱であり、「エジプト人によるエジプト」を掲げてオスマン帝国下のエジプト政権と欧米列強の支配に挑んだ運動である。エジプト軍将校アフマド=ウラービー(ウラービー・パシャ)が中心となって立憲政治の確立と外国干渉の排除を目指したが、最終的にはイギリス軍の武力介入によって鎮圧され、長期にわたるイギリスのエジプト占領を招く転換点となった。

19世紀エジプトの政治・経済的背景

19世紀のエジプト(19世紀)は、ムハンマド=アリーが築いたムハンマド=アリー朝のもとで軍制改革や綿花栽培の拡大など急速な近代化を進めたが、同時に膨大な対外債務に苦しんでいた。イスマーイール=パシャ以降、豪奢な宮廷支出とスエズ運河建設に伴う借金が財政を圧迫し、列強は財政再建を口実に関税や財政を事実上管理した。エジプトの支配者であるエジプト総督(ヘディーヴ)は名目上オスマン帝国の臣下であったが、実際にはロンドンとパリの意向を強く受ける半植民地的な体制が形成されていたのである。

軍隊と農村社会の不満

財政危機のしわ寄せは、農民と下級軍人に重くのしかかった。農民は綿花単作と重税のため土地を失い、強制徴発や賦役に苦しんだ。近代的国軍の編成過程で、トルコ系・サーカス系エリート将校が優遇される一方、アラブ系エジプト人将校は昇進を妨げられ、給与や待遇でも差別された。この不満が、農村出身の下級将校であるウラービーらを中心に結集し、軍の人事権と国家財政を握る宮廷と外国人顧問に対する反発へと転化したのである。こうした構造は、かつての支配層を武力で排除したマムルークの一掃以後も完全には解消されていなかった。

ウラービーの台頭と立憲要求

農村出身の将校アフマド=ウラービーは、同じ境遇の将校たちの支持を背景に、軍の昇進差別の撤廃を求めて1870年代末から政治的発言を強めた。1881年、カイロ近郊で武装した部隊を集結させた彼は、政府に対して軍の増員、外国人高官の削減、そして憲法制定と議会設置を求める圧力をかける。この軍事示威行動は成功し、ヘディーヴ政権はウラービーを陸軍大臣に任命し、制限的ながらも議会の開設と憲法草案の準備を認めた。ここにウラービー革命は、軍事クーデタの域を超えて、立憲政治と国民代表を求める運動として展開していく。

大国の干渉とアレクサンドリア砲撃

しかし、エジプト財政に深く関与していたイギリスとフランスは、ウラービー革命によって自国の利害が脅かされることを恐れた。とくにイギリスは、インド航路の生命線であるスエズ運河の安全を最重要視していたため、革命政権が反欧米政策を強めることに強く警戒した。1882年、アレクサンドリアで欧州人とエジプト人の衝突が発生すると、イギリスは治安回復を名目に艦隊を派遣し、要塞の武装解除を要求した。要求を拒否した革命側に対し、イギリス艦隊はアレクサンドリアを砲撃し、市街地は大きな被害を受けた。この軍事行動により、内政問題であったはずの運動は、一挙に国際問題へと発展した。

テル・エル・ケビールの戦いと革命の敗北

アレクサンドリア砲撃後、イギリスはエジプト本土への上陸作戦を開始し、1882年のテル・エル・ケビールの戦いでウラービー軍を撃破した。エジプト軍は近代兵器や訓練の面でイギリス軍に劣り、短期決戦で主力部隊が壊滅したことで抵抗は続かなかった。ウラービー自身は逮捕されて死刑判決を受けたが、その後流刑に減刑され、革命の指導部は排除された。こうしてウラービー革命は挫折に終わり、イギリスはオスマン帝国の宗主権を名目的に残したままエジプトに常駐軍を置き、事実上の保護国支配を開始することになる。

エジプト民族運動への影響

ウラービー革命は短期的には敗北であったが、その理念と経験は後のエジプト民族運動に大きな影響を与えた。イギリス占領下でも、立憲主義や議会主義への志向、外国支配への拒否感は、知識人や都市民衆の間で受け継がれた。20世紀初頭には、エジプトの政党政治や1919年革命など、新たな民族運動が展開されるが、その先駆的な試みとしてウラービー革命が記憶されたのである。こうした動きは地域全体のアラブ民族主義運動とも結びつき、オスマン帝国からの自立と近代国家建設を目指す潮流の一部とみなされるようになった。

アラブ世界との連続性と評価

エジプトで起こったウラービー革命は、単なる国内反乱ではなく、その後のアラブ文化復興運動アラブの覚醒にも通じる、広い意味での「覚醒」の一局面として理解される。軍人・官僚・知識人・都市民衆・一部農民が共同して外国支配に抵抗し、憲法と議会による統治を要求した点で、この運動は近代アラブ世界における国民国家形成の早い段階を示すものであった。たとえ結果としてイギリスの占領を招いたとしても、のちにエジプトやアラブ世界の人々が自らの歴史を語る際、ウラービー革命は、外圧と内部改革のはざまで模索された独立と自由の象徴として位置づけられている。