ウラービー反乱
ウラービー反乱は、1881〜1882年にかけてエジプトで起こった軍人と民衆による政治運動であり、ヨーロッパ列強の干渉と王政の専制に対抗した初期のエジプト民族運動である。アラブ名アフマド・ウラービー(Ahmed Urabi)が指導し、憲法の制定や議会政治の実現、「エジプト人のためのエジプト」を掲げたが、最終的にはイギリス軍の武力介入によって鎮圧され、エジプトは事実上のイギリス支配下に置かれることになった。エジプト近代史と中東における民族主義の出発点として重要な位置を占める出来事である。
背景
19世紀のエジプトでは、ムハンマド・アリー以来の近代化政策と軍備増強、大規模な灌漑事業が進められたが、その費用をまかなうために対外債務が急増した。とくにスエズ運河建設後、国際金融資本への依存が強まり、財政が破綻するとイギリスとフランスはエジプト財政を共同管理し、内政に深く干渉した。こうした状況は、重税に苦しむ農民層と、昇進差別を受けるエジプト人将校たちの不満を高め、これがウラービー反乱の土壌となった。
アフマド・ウラービーの登場
アフマド・ウラービーは農民出身の将校で、トルコ系やサーカシア系エリートが優遇される軍内部の人種的・身分的差別に反対した人物である。彼は同じ境遇のエジプト人将校をまとめ、軍人団体を組織して昇進の平等化や外国人顧問の排除を要求した。この運動は次第に民衆の支持を獲得し、宮廷の専制を批判する政治運動へと発展していく。こうして軍人の不満と民衆の不満が結びついたことがウラービー反乱の大きな特徴である。
反乱の展開
1881年、ウラービーらは首都カイロ近郊で軍事デモを行い、エジプト総督(ヘディーヴ)タウフィークに対し、政府の罷免や国会設置、憲法制定を要求した。国王側はこれを完全には拒否できず、改革を約束するが、その背後ではオスマン帝国宗主権とヨーロッパ列強との間でエジプト問題が協議されていた。1882年にはアレクサンドリアで暴動が起こり、これを口実としてイギリス艦隊が砲撃を行い、軍隊を上陸させて反乱鎮圧に乗り出した。
テル・エル・ケビールの戦いと敗北
ウラービーは内陸部に軍を集結させて防衛線を築いたが、1882年9月のテル・エル・ケビールの戦いでイギリス軍に敗北した。イギリス軍は近代的装備と訓練を有しており、統制の弱いエジプト軍は短期決戦で崩壊したとされる。ウラービーは捕えられて死刑判決を受けたが、国際世論への配慮から流刑に減刑され、ここにウラービー反乱は終息した。
運動の理念
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「エジプトはエジプト人のために」というスローガンは、外国人支配への抵抗と、エジプト人の政治参加拡大を訴えるものであった。
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ウラービー派は議会と憲法の導入を要求し、専制的宮廷とヨーロッパ財政監督の双方に対抗する立場をとった。
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この理念は、後のエジプトおよびアラブ世界の民族主義運動に大きな影響を与えたと評価されている。
結果と歴史的意義
ウラービー反乱が敗北したことで、エジプトは名目上はオスマン帝国領のままでありながら、実際にはイギリス軍駐留と官僚支配が続く事実上の保護国状態に置かれた。戦略上重要なスエズ運河を掌握したイギリスは、中東における自国の影響力を拡大し、19世紀後半の帝国主義政策を推し進めていく。一方で、反乱に参加した知識人や農民の経験はその後の独立運動や1919年革命へと受け継がれ、エジプト社会における植民地支配への抵抗意識を強める結果となった。こうしてウラービー反乱は、短期的には敗北で終わりながらも、エジプト近代史における「民族の時代」の開幕を告げる転換点として位置づけられている。
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