ウスマーン|クルアーン編纂と領土拡大

ウスマーン

ウスマーン・イブン・アッファーンは、預言者ムハンマドの義理の息子であり、第3代正統カリフである。クライシュ族のウマイヤ家に属し、商才と慈善で知られた。彼の治世(644–656年)は、アラビア半島の共同体が帝国へと変容する節目であり、アルメニア・ホラーサーン・エジプト・北アフリカなど外征が進む一方、行政の標準化と財政・軍制の整備、さらにクルアーン本文の統一という宗教史上画期的な事業で特徴づけられる。後半には親族登用をめぐる批判が増し、各地の不満がメディナに集約して政治危機が深まり、最終的にウスマーンは暗殺され、第一次内乱(フィトナ)へと連鎖した。

生涯と背景

ウスマーンは商人として成功し、早期にイスラームに改宗した。アビシニアへの移住を経験後、メディナでムスリム共同体を支え、寛大な施しで名声を得た。ムハンマドの娘ルカイヤ、続いてウムム・クルスームと婚姻したことから「ズン=ヌーライン(両光の持ち主)」の称号で呼ばれる。柔和な性格と温和な統治姿勢は、多民族を包摂する共同体運営に資した。

カリフ選出と統治の骨格

第2代カリフ・ウマルの指名した合議(シュラー)によりウスマーンが選出された。彼は前代の制度を継承しつつ、徴税・配分台帳ディーワーンを整え、将兵への給付を安定化させた。また、征服地に軍営都市(ミスル)を配置して統治の拠点化を図り、イラクのクーファ・バスラ、エジプトのフスタートなどが拡張・整備された。これらの都市は行政府・軍・市場・モスクを備え、長期占領と移住を見据えた帝国化の基盤となった。

クルアーン編纂(ウスマーン稿)

ウスマーンは諸方言・読誦差の混乱を避けるため、書記ザイド・イブン・サービトらに命じてクルアーンの標準本文を編纂した。完成した正本(通称「ウスマーン稿」)を主要都市へ配布し、公式読誦を統一したと伝えられる。異本の破棄は論争も招いたが、啓典の文言を共同体全体で共有する仕組みを確立し、宗教実践と法学の発展に決定的な影響を与えた。信仰共同体の一体性を制度面から担保した点で、この事業は宗教史・テキスト史の金字塔である。

領土拡大と海軍力の形成

外征はコーカサスのアルメニア・アゼルバイジャン、東方のホラーサーン・シースターン、西方のイフリーキヤへ及んだ。地中海では造船を進め、キプロス遠征やビザンツ帝国との会戦に臨み、海上行動の経験値を高めた。こうした進出は交易路の掌握をもたらし、歳入源の多角化と都市網の発展に寄与した。軍営都市を核に道路・補給網が接続され、征服は占領・定住・徴税へと段階的に制度化されたのである。

親族登用と反発

ウスマーンはウマイヤ家の人材を要地に登用した。経験豊富な総督は行政効率を上げたが、メディナの古参移住者やイラク・エジプトの新住民は、収奪や土地配分の不均衡、地方有力者の専横を訴えた。徴税と裁判をめぐる不満は文書で可視化され、告発と反告発が錯綜する中、総督交代や弾劾の要求が相次いだ。富の集中や公地の再配分は、信仰共同体の平等理念と緊張関係を生み、政治的権威の正統性を侵食していった。

包囲・暗殺と第一次内乱

656年、エジプト・クーファ・バスラなどから不満勢力がメディナに集結し、邸宅が包囲された。仲裁と書簡の真偽をめぐる混乱の末、ウスマーンは自邸で殺害され、統治は空白化する。後継に立ったアリーは正統性をめぐって各派と対峙し、内乱(fitna)が本格化した。共同体は最初の内戦を通じ、統治と信仰、血縁と合議、中心と辺境という複数の軸で再編を迫られ、のちの王朝政治と神学的議論の出発点が刻まれた。

称号・人物像

ウスマーンは「ズン=ヌーライン」のほか、慈善と忍耐で知られ、温和な気質が語られる一方、決断の遅さや親族優遇への批判も伝承に残る。史料には賛否が並存し、地域・法学派・宗派により評価の振れ幅が大きい。

史料と研究の射程

初期イスラーム史は口承と文書が複層に重なる領域である。年代記・伝記・法学文献を相互参照し、地方行政・財政・軍制・都市考古学を統合することで、ウスマーン期の統治とテキスト標準化の相関が立体化する。近年は紙史料・貨幣学・パピルス文書の分析が進み、官僚制の輪郭や徴税の実務、都市社会の階層構造が具体化している。