イル=ハン国|イラン文化とモンゴル権力の交錯

イル=ハン国

イル=ハン国は、モンゴル帝国の西南部に成立したハン国であり、イラン高原とアゼルバイジャン、イラク北部、カフカスの一帯を統治した国家である。1250年代にフラグ(フレグ)が進出してアッバース朝を滅ぼし、タブリーズやスルターニーイェを中心に宮廷文化と国制を整備した。イスラーム世界におけるモンゴル政権として、イスラーム社会への適応とユーラシア規模の交易の結節を担い、14世紀半ばに崩壊するまで地域秩序に深い影響を与えた国家である。

成立と背景

モンゴル帝国の分権化が進むなかで、フラグは1256年にアラムートのニザール派を攻略し、1258年にバグダードを陥落させてアッバース朝を終焉させた。これにより西南アジアに新たなモンゴル政権が出現し、のちに「イル(従属)ハン」の称が用いられるようになった。首都候補は移動したが、タブリーズが政治経済の中枢として機能し、イラン系官僚とモンゴル的軍事貴族の協働体制が構築された。

統治構造と財政

初期は征服財を基礎にした軍事的支配が中心であったが、行政の整備と租税の安定化が不可欠であった。ガザン・ハン(在位1295–1304)はイスラーム改宗後、宰相ラシードゥッディーンらとともに地租・関税・検地の再編、俸給体系の見直し、文書行政の規格化を進めた。貨幣制度も整序され、都市間交易の計量・課税が統一的に運用される方向へ向かった。一方、ガイハトゥ治下には紙幣導入の実験が行われたが、市場の混乱を招き短命に終わったことでも知られる。

宗教政策と改宗

支配層は当初、シャーマニズムや仏教、東方キリスト教など多元的宗教環境にあったが、ガザンのイスラーム改宗(1295年)以後、国家としてイスラーム色を強めた。異教徒に対する寛容策は維持されつつも、モスク・マドラサの整備、シャリーアの適用拡充、ワクフの再建が進んだ。これによりイラン社会の既存制度とモンゴル支配が制度的に接合し、税制・司法・学術がイスラーム的枠組みで再編された。

外交と軍事

イル=ハン勢力はシリア・小アジア方面でマムルーク朝と鋭く対立した。アイン・ジャールート(1260年)におけるモンゴル軍の敗北はシリア支配の限界を示し、その後もシリア遠征は断続したが決定的成功には至らなかった。他方、ジョージアやアルメニアには強い影響力を及ぼし、アナトリアの諸侯に対する宗主権を行使した。欧州諸国との連携を模索する書簡外交も展開され、十字軍との対マムルーク協調は理念的には接近したが、軍事的結実は限定的であった。

経済と交易

イラン高原はユーラシア横断交易の要衝であり、キャラバンサライ網や関所が整備され、東西の商人・職人・学者が往来した。タブリーズは金銀細工、絹織物、書物交易で栄え、関税収入は国家財政を支えた。内陸税制の均一化や度量衡の標準化は市場統合を促し、「Silk Road」全体の物流効率を高めた。貨幣はディナール・ディルハムを軸にしつつ地方差を調整し、遠隔地商業の信用取引も広がった。

学術・文化と宮廷サロン

フラグが建立を支援したマラーゲ天文台は、ナスィールッディーン・トゥースィーを中心に観測・目録編纂を行い、天文表や数学研究の拠点となった。ラシードゥッディーンは歴史大著『集史』を編纂し、モンゴル帝国史と諸民族誌を統合した知のアーカイブを形成した。細密画(ミニアチュール)や書道、建築装飾はイラン古来の美意識とモンゴル的図像が融合し、スルターニーイェの建築群は王権の視覚化に大きく寄与した。

社会構造と土地支配

イル=ハン体制下では、軍功に基づく分配と地方エリートの既得権が交錯した。イクター(給与地)や封土的給付により軍事貴族の奉仕を確保しつつ、耕地・灌漑・牧地の管理権を再編する施策が実施された。遊牧と定住農耕の接点であるオアシス都市では、交易・手工業・租税の利害が絡み、地方官と商人勢力が都市政治を主導した。

主要君主と年表(抄)

  • フラグ(フレグ):アッバース朝征服の主導者
  • アバカ:体制の安定化に尽力
  • ガイハトゥ:紙幣実験で知られる
  • ガザン・ハン:イスラーム改宗と制度改革
  • オルジェイトゥ:スルターニーイェ造営
  • アブー・サイード:1335年没、後継争いへ

崩壊と後継勢力

アブー・サイード没後、王統は断絶し、諸将・宰相勢力が分立して内紛が続いた。ジャラーヤイル朝やチョーバン系勢力、ムザッファル朝などが地域ごとに台頭し、ティムールの西方進出が重なって旧領域は再編された。これにより「モンゴル=イラン国家」は終局へ向かうが、法制・官僚制・都市文化の蓄積はその後のイラン・トルコ系政権へ受け継がれた。

歴史的意義

ユーラシア規模での知識と人流・物流の結節点として、イル=ハン国はイスラーム世界とモンゴル帝国の制度的折衷を実現した。征服の衝撃を経て、税制・司法・学術・美術におけるイラン化とモンゴル的要素の融合を推し進め、後世のイラン王朝やオスマン、ティムール朝の制度と文化に持続的痕跡を残した点に、その特質的意義がある。