イタリア統一|王国分立から国民国家へ

イタリア統一

イタリア統一とは、19世紀に半島各地に分裂していた諸国家を、サルデーニャ王国を中心として1つの国民国家「イタリア王国」へとまとめ上げていく過程である。フランス革命とナポレオン戦争の衝撃で広まった国民意識とナショナリズムが土台となり、秘密結社による蜂起、1848年革命、サルデーニャ王国の外交・戦争、ガリバルディの「千人隊」遠征など、数十年にわたる政治・軍事・社会運動の積み重ねによって、1870年のローマ占領をもってほぼ完成したとされる。

分裂したイタリアとウィーン体制

ナポレオン支配の崩壊後、1815年のウィーン会議によってイタリア半島は再び分裂状態に戻された。北部のロンバルディア=ヴェネツィアはオーストリア帝国の直轄領となり、中部には教皇領、南部には両シチリア王国が復活し、西北部にはサルデーニャ王国(ピエモンテ)が存続した。このような秩序は「ウィーン体制」と呼ばれ、旧体制君主国とオーストリアが主導権を握ったが、ナポレオン時代に広まった平等思想や国民国家理念は消えず、のちのイタリア統一運動の温床となった。

マッツィーニと革命的統一運動

19世紀前半には、カリボナリなどの秘密結社や共和主義者が各地で反乱を起こした。その代表がマッツィーニであり、彼は「青年イタリア」を組織して、王政を打倒し共和制にもとづくイタリア統一を唱えた。1830年代から40年代にかけて蜂起は繰り返されたが、オーストリア軍や保守政権に鎮圧されることが多かった。1848年にはヨーロッパ全土で革命が広がり、イタリアでも各地で憲法制定や独立戦争が起こったが、オーストリアと反動の巻き返しにより挫折し、共和的統一案は後退した。この時期の動きは、同じく国民国家形成を進めたドイツ統一とも並行している。

カヴールとサルデーニャ王国の外交戦略

1848年革命後、統一運動の主導権を握ったのはサルデーニャ王国であった。宰相カヴールは急進的共和制ではなく、立憲君主制のもとでのイタリア統一をめざし、国内の産業・交通を整備して近代国家化を進めた。彼は産業革命後の資本主義の力を利用しつつ、クリミア戦争に参戦して列強の一員としての地位を主張し、フランス帝政との接近を図った。1859年にはナポレオン3世と協調してオーストリアと戦い(第二次イタリア独立戦争)、ロンバルディアの獲得に成功し、続く住民投票によってトスカナなど中部諸公国もサルデーニャ王国への編入を選択した。

ガリバルディと「千人隊」の遠征

1860年、義勇軍指導者ガリバルディは「千人隊」を率いてシチリア島に上陸し、両シチリア王国を打倒して南部諸州を支配下に置いた。ガリバルディは熱烈な共和主義者であったが、最終的には内戦を避けるため、自らの征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に譲渡した。この結果、北部と南部の大部分が統合され、1861年にイタリア王国が宣言された。ただしヴェネツィアとローマはなお統一の外にあり、この段階ではイタリア統一は未完成であった。義勇軍や国民軍の動きは、数年後の普仏戦争におけるドイツ側の動員とも比較される。

ヴェネツィア・ローマの併合と統一の完成

  • 1866年、イタリア王国はプロイセンとの同盟のもとでオーストリアと戦い、講和の結果ヴェネツィアを獲得した。
  • ローマについては、フランス帝国が教皇を軍事的に保護していたため、イタリアは直接の併合に踏み切れなかった。
  • 1870年、普仏戦争の勃発によりフランス軍が撤退すると、イタリア軍はローマに進軍し、住民投票を経てローマを併合した。

こうして1870年にローマはイタリア王国の首都となり、形式上のイタリア統一は完成した。しかし教皇は併合を認めず「バチカンの囚人」と称して王国政府と対立し続け、ローマ問題は20世紀のラテラノ条約まで解決されなかった。この長期的対立は、近代ヨーロッパにおける世俗国家と教会の関係を考えるうえでも重要であり、フランス革命期の教会改革との連続性も指摘される。

統一後の課題とヨーロッパ史上の意義

統一後のイタリア王国には、多くの課題が残された。北部工業地帯と農業中心の南部との経済格差、標準語教育の遅れによる言語的多様性、旧体制的な地主層の残存などである。これらの問題は、ときに「南部問題」として顕在化し、統一国家としての一体感を弱めた。他方、イタリア統一は、国民国家形成のモデルとして19世紀ヨーロッパに大きな影響を与えた。とくにビスマルク主導のドイツ統一や、ウィーン体制下の秩序を揺るがした諸民族運動との関連で理解されることが多い。こうして、ナポレオン戦争後の保守的な秩序とナショナリズムの高揚とのせめぎ合いのなかで、イタリアは近代的な主権国家として国際社会に登場したのである。