イギリスのEEC不参加
イギリスのEEC不参加とは、1957年に発足した欧州経済共同体(EEC)の形成期に、イギリスが当初その枠組みに加わらず、別の通商構想を模索した経緯を指す。戦後の欧州再建と欧州統合の流れの中で、イギリスは大陸欧州と経済的に結びつきながらも、英連邦の優遇関税や世界的な金融・外交上の役割を重視し、EECの関税同盟型統合に距離を置いた。その後、国際環境の変化と経済上の要請により加盟申請へ転じるが、一定期間の不参加はイギリスの欧州政策の性格を象徴する出来事として位置づけられる。
EEC成立とイギリスの立ち位置
EECはローマ条約(1957年)により「共通市場」を目指す枠組みとして始動した。域内関税の撤廃と対外共通関税の設定を柱とする関税同盟の発想は、参加国の政策調整を広げる性格を持つ。イギリスは欧州の安定に関心を持ちながらも、国家主権や議会政治の伝統、広範な対外関係を背景に、超国家的な制度設計には慎重であった。
不参加を選んだ主な背景
不参加の背景には複数の要因が重なった。第1に、英連邦との貿易関係や帝国特恵的な制度が残り、農産物や一次産品の調達・販売の回路が欧州大陸とは異なっていた点がある。第2に、EECの対外共通関税は、従来の通商政策を大きく組み替えることを意味し、国内産業や消費者物価への影響が強く意識された。第3に、安全保障はNATOを軸に考える傾向が強く、経済統合と政治統合が接近する展開に警戒感が生じやすかった。これらが重なり、イギリスはEECとは別の協力形態を模索することになる。
EFTA構想と「広い自由貿易圏」
イギリスは大陸側の関税同盟に対し、関税引下げを中心とする自由貿易型の枠組みを志向し、1960年に欧州自由貿易連合(EFTA)の成立に関与した。EFTAは工業製品の関税撤廃を進めつつ、対外共通関税や共通政策を持たない点に特徴があり、国家の裁量を確保しやすかった。もっとも、域内市場の厚みや政治的求心力という点でEECが優位になっていくと、EFTAのみでは長期的な成長戦略を支えにくいという認識が広がった。
加盟申請への転換と拒否権問題
1960年代初頭、経済成長率や投資環境の面でEECが注目されると、イギリスは方針を修正し、1961年に加盟申請へ踏み出した。しかし交渉は順調に進まず、フランスの大統領ド・ゴールがイギリスの加盟に否定的姿勢を示し、1963年に交渉は事実上停止した。1967年の再申請も同様に障害となり、イギリスの不参加は「選好の問題」だけでなく、加盟国側の政治判断にも左右された。
争点となった政策領域
- 対外共通関税の受入れと英連邦貿易の再編
- 共通農業政策(CAP)の財政負担と食料価格への影響
- 通貨・金融面での調整と国際収支問題
- 外交・安全保障での独自裁量の確保
これらの争点は、単なる関税率の調整にとどまらず、国内の産業構造や財政、政治判断に直結したため、交渉は複雑化しやすかった。
不参加がもたらした国内政治・経済への含意
不参加は国内政治にも影響した。欧州との関係を重視する立場と、世界市場や主権の保持を重視する立場が政党内にも存在し、政策決定は一枚岩になりにくかった。また、EECの市場統合が進むほど、域内投資の立地や輸出機会の面で機会損失が語られ、産業近代化の議論と結びついた。こうした圧力は、最終的に加盟志向を強める方向へ作用したといえる。
不参加から加盟へ移るまでの流れ
- 1957年:ローマ条約により欧州経済共同体(EEC)発足
- 1960年:EFTA成立
- 1961年:イギリスがEEC加盟申請
- 1963年:交渉停滞(拒否権問題)
- 1967年:再申請も進展が限定的
- 1973年:イギリスが欧州共同体(EC)に加盟
この推移は、当初の不参加が固定的な孤立を意味したのではなく、国際経済の構造変化の中で選択が更新された過程として理解できる。
歴史的な位置づけ
イギリスのEEC不参加は、戦後欧州の制度形成期における「統合への距離感」を示す事例である。イギリスは欧州の安定と市場の重要性を認めつつ、国内制度と対外関係を維持しながら参加の条件を探った。不参加の期間に積み重なった交渉上の論点は、のちの欧州政策でも繰り返し争点化しやすく、欧州統合史の中でイギリスが抱えた構造的課題を照らす手がかりとなる。