イエナの戦い|ナポレオンがプロイセン撃破

イエナの戦い

イエナの戦いは、1806年10月14日にドイツ中部テューリンゲン地方で行われたナポレオン戦争期の会戦である。フランス皇帝ナポレオン1世が率いるフランス軍がプロイセン・ザクセン連合軍を撃破し、伝統的に強大とみなされていたプロイセン軍の威信を一挙に失墜させた。この勝利は同日に別戦場で行われたアウエルシュタットの戦いと並んでプロイセン王国に壊滅的打撃を与え、以後のドイツ世界におけるフランスの覇権とヨーロッパ国際秩序の再編を決定づける転換点となった。

ナポレオン戦争と対プロイセン開戦の背景

1805年、ナポレオンはアウステルリッツの戦い、すなわち三帝会戦でオーストリア・ロシア連合軍に大勝し、ハプスブルク家のオーストリア帝国にプレスブルク条約を受け入れさせた。続いて彼は南ドイツ諸邦を糾合してライン同盟を結成し、それにより中世以来続いてきた帝国秩序は実質的に崩壊し、やがて神聖ローマ帝国の消滅へと至った。このようなドイツ諸邦へのフランスの影響力拡大に危機感を強めたプロイセンは、フランス軍の西岸撤退とライン同盟の解体を要求する最後通牒を突きつけ、背後には対仏感情の高まりと、先の第3回対仏大同盟以来の対フランス強硬論があったとされる。

参戦勢力と指揮官

対立したのは、ヨーロッパ大陸の大部分を掌握しつつあったフランス帝国軍と、フリードリヒ2世以来「ヨーロッパ随一」と自負してきたプロイセン軍であった。フランス側は近代的な兵站と軍団制度を備えたグランダルメであり、その中心にナポレオン1世が立ち、マレーシャル(元帥)ランヌやスールトら歴戦の将が配されていた。他方のプロイセン側は、ホーエンローエ公をはじめとする将軍たちが古い直線戦術と隊列を重視する軍制を維持しており、戦争初期にはその保守性が弱点として露呈したといわれる。

  • フランス軍:柔軟な軍団編制と行軍速度を武器とした近代的常備軍
  • プロイセン・ザクセン連合軍:射撃より隊列と白兵戦を重んじた伝統的陸軍

戦場の地形と作戦構想

イエナの戦いの主戦場となったのはザーレ川流域に位置するイエナ周辺の丘陵地帯である。ナポレオンは事前の情報から、プロイセン主力が自軍の北方に位置すると誤認していたが、それでも敵軍を各個撃破するため素早い集中と側面攻撃を構想していた。プロイセン側も高地を占めてフランス軍を迎え撃とうとしたが、指揮系統の混乱と情報伝達の遅れのため、統一的な作戦を展開することができなかったとされる。

開戦とフランス軍の攻勢

1806年10月14日の早朝、濃い霧のなかで両軍は接触し、前哨戦を経て会戦が本格化した。フランス軍は丘陵地帯を登りながら縦深のある攻撃隊形をとり、プロイセン軍の前線を圧迫した。特にランヌやスールトの軍団は、散兵線と縦隊を組み合わせた柔軟な戦い方でプロイセン歩兵の横隊を突き崩し、砲兵も機動的に前進して火力支援を行った。これに対してプロイセン側は各部隊が個別に応戦するにとどまり、戦線全体を統一して反撃する体制を整えることができなかった。

プロイセン軍の崩壊とアウエルシュタットとの連動

午前から正午にかけて、フランス軍は徐々に数と機動力の優位を生かしてプロイセン軍の側面を包囲し、午後には敵軍の戦列は各所で突破された。同じ日、イエナより北方のアウエルシュタットではフランスのダヴー元帥が数で劣る軍団でプロイセン主力と交戦し、これを撃破している。こうしてイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いという二つの勝利が連動し、退路を失った多くのプロイセン部隊は潰走、もしくは投降を余儀なくされた。結果としてプロイセンの野戦軍は短期間で事実上壊滅し、ベルリンへの道はフランス軍に対して開かれることとなった。

戦後処理とプロイセン改革への道

イエナの戦い後、フランス軍は迅速に進撃してベルリンを占領し、プロイセン王国に対して苛酷な講和条件を突きつけた。翌1807年のティルジット条約により、プロイセンは広大な領土を失い、軍備も大幅に制限されることになった。この屈辱的敗北は、のちにシュタインやハルデンベルクらによる国家改革、軍制改革の大きな契機となり、後世「プロイセン改革」と呼ばれる近代化の出発点として記憶される。ナポレオン側にとっては、北ドイツにおける支配を固めてナポレオンの大陸支配を推し進める重要な一歩となった。

ヨーロッパ国際秩序への影響

プロイセンの敗北と講和により、フランス帝国は中部・北部ドイツまでを勢力圏に収め、ナポレオン期の帝国体制である第一帝政は大陸で絶頂期を迎えた。海上では前年のトラファルガーの海戦で、提督ネルソン率いるイギリス海軍に敗れて制海権を失っていたため、ナポレオンは大陸での勝利と「大陸封鎖令」によってイギリスを経済的に圧迫しようとする路線を強めていくことになる。このようにイエナの戦いは、プロイセンという一国の命運だけでなく、ドイツ民族意識の形成や後の解放戦争、さらにはナポレオン時代のヨーロッパ国際秩序の行方に深くかかわる鍵となった会戦であった。