アヴィニヨン|教皇庁が置かれたローヌの古都

アヴィニヨン

アヴィニヨンはフランス南東部プロヴァンス地方、ローヌ川左岸に位置する城壁都市であり、14世紀にローマ教皇庁が移ったことで中世ヨーロッパの宗教・政治史に大きな影響を与えた都市である。巨大な教皇宮殿(パレ・デ・パプ)と石橋サン=ベネゼ橋で知られ、都市空間には教会・修道院・役所群が集中して配置された。1309年に教皇クレメンス5世がローマを離れてここに居住したのち、1377年まで教皇庁はアヴィニヨンに拠点を置き、その後の西方シスマでは対立教皇の拠点として重い歴史を担った。都市は1348年に教皇庁が正式に買収し、18世紀末までローマ教会領の飛地として存続した。

地理と都市景観

アヴィニヨンはローヌ川の交通結節点に立地し、河川港と陸上交通を結ぶ要衝である。周囲は平野と石灰岩台地が広がり、城壁が旧市街を環状に囲む。サン=ベネゼ橋は中世の架橋技術を象徴する構造物で、要衝の往来と課税の拠点を形成した。随伴する修道院や慈善施設は巡礼者・官吏・学僧を吸収し、宗教都市としての機能を高めた。

中世前史と伯領の支配

古代ローマ時代の拠点を母体に、中世には司教座と都市共同体が発達した。地中海世界とローヌ川流域を結ぶ交易は、毛織物・ワイン・塩などを運び、都市富裕層を生み出した。プロヴァンス伯やトゥールーズ伯の勢力圏が競合するなか、教会勢力は都市統治への関与を強めて行政と司法の一部を掌握した。

教皇庁の移転(アヴィニヨン教皇庁)

1309年、クレメンス5世はローマの動乱とイタリア諸勢力の対立を回避し、教皇廷をアヴィニヨンへ移した。背景にはフランス王権、特にフィリップ4世の圧力と、教会財政・行政の合理化要請があった。以後、教皇宮殿が増築され、枢機卿団の居館街区や審院の庁舎が並び、教会国家の「官僚都市」が形成された。

教皇庁の行政・財政と都市経済

教皇廷の集中は裁許・恩寵付与・課税などの事務を高度化し、教令の発出や人事も体系化された。巡礼者・訴訟人・聖職叙任希望者が各地から集まり、宿泊・金融・書記業・運送が活況を呈した。教会歳入はアナタ(十分の一税)や手数料を通じて一元化され、都市には公証人・大学者・翻訳者が集住した。この行政中心化は後世のローマ教皇庁の組織運営にも継承される。

ローマとの対立と前史(アナーニ事件)

教皇移転の遠因として、ボニファティウス8世とフランス王権の対立が挙げられる。1303年のアナーニ事件は教皇権の威信に打撃を与え、その後の教皇選出と政治均衡に長期の影を落とした。こうした緊張の帰結として、フランスに近いアヴィニヨンが政治的妥協の地となったのである。

西方シスマと二重教皇制

1377年、教皇庁はいったんローマへ戻るが、翌年の選出をめぐる混乱から西方シスマが勃発した。ローマとアヴィニヨンに並立する教皇が互いに正統を主張し、ヨーロッパ諸国は二分された。対立構図は教皇権の権威低下、各王権・都市国家の自立化を促し、結果的に教皇権の衰退という大きな潮流につながった。

教皇領としての買収と統治

1348年、教皇クレメンス6世はアヴィニヨンを正式に買収して教皇領化した。都市統治は教皇代理(総督)と市参事会が分担し、法廷と徴税の分業が確立した。黒死病の流行や財政需要の逼迫は社会不安を招いたが、庁舎・倉庫・病院の整備によって公共機能は維持され、官僚都市としての性格はむしろ強化された。

「教皇のバビロン捕囚」の表象

教皇のバビロン捕囚という表現は、教皇が俗権に囚われた象徴としてアヴィニヨン期を批判的に捉える観点である。この比喩は中世末期の教会改革論・人文主義的風潮に影響し、ローマ回帰と組織刷新への要請を強めた。政治・宗教・思想が交錯する舞台としての都市像を理解する鍵となる。

フランス併合と近代以降

18世紀末、革命の激動のなかで住民投票を経て1791年にフランスへ併合された。以後、県都アヴィニヨンは行政・観光・文化の拠点として整備され、遺構群は世界的景観を構成する。中世以来の祭礼・市場は形を変えつつ継承され、都市ブランドは歴史資源と舞台芸術の融合によって強化された。

用語・年号の整理

  • アヴィニヨン教皇庁:1309–1377年の教皇居住期を指す。
  • 西方シスマ:1378–1417年の教会分裂。ローマとアヴィニヨンに教皇系統が並立。
  • 1348年買収:教皇庁が都市を正式に取得し、教皇領の飛地として編入。

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