アレクサンドロス大王のインド侵入|ヘレニズム拡大と東西交流の進展期

アレクサンドロス大王のインド侵入

前4世紀末、マケドニア王アレクサンドロス3世はアケメネス朝ペルシアを滅ぼしたのち、帝国の東端を確定し海へ到達するという野心からインダス流域へ兵を進めた。一般にアレクサンドロス大王のインド侵入と呼ばれるこの遠征は、前327年にヒンドゥークシュ山脈を越えてガンダーラ方面へ入り、スワート谷の山岳勢力を制圧しつつ、前326年のヒュダスペス川(ジェラム川)会戦でパウラヴァ族の王ポロスを破ったことを頂点とする。その後はヒュパシス川(ビアス川)で兵の進軍拒否に遭い、艦隊と陸軍を分進させてインダス河口へ下り、ゲドロシア砂漠を横断してバビロンへ帰還した。遠征は短期に終わったが、インダス以西へのサトラップ支配、都市建設、象軍との遭遇、地理知識の拡充を通じ、後のヘレニズムとインド世界の接触を促した点で画期的であった。

遠征の背景と目的

アレクサンドロスはダレイオス3世を破り、スーサやペルセポリスを掌握したのち、帝国の東方境界線とされるインダス流域の実効支配を図った。目的は、旧ペルシアのサトラペイア(州)に連なる辺境の平定、外征の勢いを保つ軍事的威信の維持、象軍や香料・宝石を含む資源へのアクセス、さらに「世界の大洋」到達という探検志向の満足であった。彼は諸族の臣従と婚姻外交を重ね、在地支配層の承認を織り交ぜながら、ギリシア式の都市・軍政を付与することで東方の統治基盤を作り上げようとしたのである。

行軍路と主要戦闘

行軍はバクトリアからヒンドゥークシュ越えで開始され、スワート谷の強固な岩山アイオルノス(アオルノス)の攻略を経て、タクシラ(タクシャシラー)の王アンピスの来朝を受け入れ、インダス渡河を実現した。前326年、最大の戦闘であるヒュダスペス川会戦では、増水する河を奇襲渡河し、重装歩兵の方陣と騎兵機動を組み合わせ、ポロスの象軍・戦車隊を迂回破砕した。勝敗は決したが、アレクサンドロスは勇戦したポロスの統治を基本的に温存し、上川流域の安定化を優先する現実策を採った。

  • アイオルノスの岩山攻略と交通路の掌握
  • タクシラでの同盟・補給確保
  • ヒュダスペス川会戦での奇襲渡河と騎兵包囲

兵の反発と撤退の決断

さらに東方のガンジス平原へ進もうとしたが、ヒュパシス川でマケドニア兵・同盟ギリシア兵の反発に直面した。長期遠征による疲労、モンスーン期の悪条件、ナンダ朝の大軍と多数の象の噂が恐怖を増幅したためである。王は祭壇を築いて転進を宣言し、艦隊をネアルコスに託して下流へ、陸軍はインダス下りとゲドロシア砂漠横断で帰途に就いた。この撤退は多大な犠牲を伴ったが、下流域の制圧・港湾探査は成功し、後の海上交通路理解を深めた。

政治体制・都市建設とサトラップ支配

アレクサンドロスはインダス周辺にギリシア式都市を配置し、サトラップを任じて徴税・治安・補給を担わせた。ブケファライア(名馬ブケファラスにちなむ都市)やニカイアなどの建設は象徴的であり、在地王ポロスに広い支配権を認めつつも、河川交通や要衝に王権の指を届かせる体制を採った。都市は退役兵の入植と市場機能を担い、文化・貨幣経済・度量衡の標準化を通じて、征服地の再編を促したのである。

インド世界への影響とヘレニズム交流

遠征自体は短期であったが、政治・軍事・文化に長期の余波を残した。まず、帝国分裂後にセレウコス1世が前305年頃にインダス方面へ遠征し、マウリヤ朝のチャンドラグプタと講和して領土割譲と引き換えに多数の戦象を得た。これらの象はイプソスの戦いで決定的な役割を果たしたと伝えられる。また、メガステネスがパータリプトラに赴いて『インド史』を著すなど、情報交流が活発化した。美術ではガンダーラ地域でギリシア的写実と仏教表現が接合し、貨幣やギリシア文字の受容は経済・行政面での接点を広げた。

史料と評価、学術的論点

主要史料はアッリアノス『アナバシス』、プルタルコス『英雄伝』、ディオドロス『歴史叢書』などのギリシア・ローマ系であり、インド側の同時代史料は限られる。ゆえに会戦の規模、都市の実在位置、サトラップの統治実態などには議論が残る。とはいえ、前327〜前325年の遠征が旧ペルシア東方の政治地図を塗り替え、ヘレニズムとインド世界の境界を「接触面」へ変えた事実は確かである。王の目的は全域併合ではなく、軍事的示威と通商・情報の回路開拓にあったと評価されることが多い。

名称・用語の整理

  1. ヒュダスペス川=ジェラム川、ヒュパシス川=ビアス川、アケシネス川=チェナーブ川である。
  2. タクシラ=タクシャシラー、ポロスはパウラヴァ族の王名である。
  3. ガンダーラ・アラコシア・ゲドロシアは旧ペルシアの州名である。
  4. ブケファライア・ニカイアは征服記念の都市名として伝わる。

地理・兵站の条件

ヒンドゥークシュ越えの高地寒冷、モンスーン期の豪雨と増水、密林・大河・象軍という未知の要素は、戦術よりも兵站と健康を蝕んだ。アレクサンドロスは補給線の延伸を嫌い、在地王の協力と河川交通の掌握で前線維持を図ったが、兵士の士気と帰還要求を前に現実的な撤退を選択したのである。結果として、遠征は征服の極致というよりも、東方世界を可視化し結節させる「接続の事業」であったと要約できる。