アルベラの戦い(ガウガメラの戦い)
紀元前331年、アケメネス朝ペルシアのダレイオス3世とマケドニア王アレクサンドロス大王との間で行われたアルベラの戦い(ガウガメラの戦い)は、古代オリエント世界の命運を大きく左右した決定的会戦である。この戦いの名称は、地名に基づき「アルベラの戦い」と呼ばれる一方、実際の主戦場がガウガメラ近郊であったため「ガウガメラの戦い」とも広く知られている。ペルシア帝国はグラニコスやイッソスなどで敗北を喫していたものの、まだなお膨大な兵力と広大な領土を維持していた。しかしアレクサンドロスは大胆な行軍と巧みな戦術で敵を翻弄し、最終的にこの一戦でペルシアの中枢を崩壊寸前に追い込んだ。重装歩兵を中心とするファランクスや、精鋭騎兵部隊を効果的に組み合わせた運用は、当時としては革新的な軍事手法であり、古代の戦争史に鮮烈な印象を残している。
戦いの背景
アレクサンドロス大王が父フィリッポス2世の遺志を継承して東方遠征を本格化させたのは、紀元前334年頃である。小アジアに上陸すると、グラニコス川の戦いでペルシア軍に勝利し、イッソスの戦いでも決定的な成果を挙げた。アレクサンドロスはシリアやエジプト方面を次々と制圧し、地中海東岸の重要都市を押さえながらペルシアの首都スサやバビロンへ向けて進軍した。一方、ダレイオス3世はこの侵攻に対し、帝国各地から兵力を再集結させ、今度こそ大軍をもって挑もうとした。それがアルベラの戦いへとつながる経緯であった。
兵力と布陣
ダレイオス3世は数十万とも伝えられる大軍を率い、広大な平地を利用して自軍の騎兵や戦車部隊の運用を有利にすべく布陣した。特に鎌付き戦車や象部隊を配した点は、敵陣を混乱させる目的だったとされる。一方のアレクサンドロスは、比較的少数の兵力を優れた機動力と練度で補い、ファランクスを中心とした歩兵と騎兵部隊を巧みに配置した。マケドニア軍のファランクスは長槍サリッサを持ち、密集隊形を形成していたため、正面からの突破は非常に困難だったのである。
開戦の経過
戦闘序盤、ペルシア軍は数と火力の優位を生かし、中央突破と両翼への包囲を狙った。特に鎌付き戦車が突撃を仕掛けたが、マケドニア軍はファランクスを一部解体し、通路を作ることで被害を最小限に留めた。一方でアレクサンドロスは、周囲を伺いながら騎兵を巧みに移動させ、ペルシア軍の中央を牽制するとともに、敵の左右両翼に圧力をかけた。ペルシア側は広い戦場を生かして側面展開しようと試みたものの、アレクサンドロスの騎兵隊が重要拠点へ果敢に突入し、混乱が生じた。
マケドニア軍の統率力
- 長期遠征を通じて磨かれた精強な歩兵団
- ファランクスの密集隊形を臨機応変に変更できる柔軟さ
- アレクサンドロス自ら率いる騎兵が瞬時に状況を変える機動力
ペルシア軍の弱点
- 巨大な兵力ゆえの統制不足
- 多民族構成で意思疎通に時間を要した
- 鎌付き戦車や象など特殊兵器の運用が混乱を誘発
決定的瞬間とその影響
アルベラの戦いの勝敗を決したのは、アレクサンドロス率いる騎兵隊の突破力だとされる。ペルシア軍の歩兵隊列が崩れる一方、ダレイオス3世は戦線の混乱から離脱し、退却を選択した。その結果、ペルシア軍の大部分は残され、指揮系統が崩壊して潰走を余儀なくされた。これによりアレクサンドロスはバビロンやスサ、さらにはペルセポリスなどの中核都市を続々と掌握し、アケメネス朝ペルシアは事実上の崩壊状態に追い込まれた。こうした大勝利によって、ヘレニズム文化の拡大と各地の融合が飛躍的に進展していく基盤が作られたといえる。
歴史的評価
この大規模会戦は、戦術や兵力編成だけでなく、政治・文化の側面にも多大な影響を及ぼした。アレクサンドロスの征服活動は東西の文化接触を促進し、ギリシア語が広域に通用するヘレニズム世界を形成するきっかけとなった。一方で、急激な帝国拡大は後継者問題や統治体制の不安定さを生み、やがてアレクサンドロスの死後にはディアドコイ戦争が勃発した。しかしながら、アルベラの戦いは古代史において最も著名な転換点の一つであり、英雄的な軍略とその後の政治的激変を象徴する事件として今なお語り継がれている。