アルビジョワ派|南仏カタリ派、十字軍による弾圧劇

アルビジョワ派

アルビジョワ派は、12〜13世紀の南フランス(オクシタニア)に広がったキリスト教二元論の運動で、カタリ派とも呼ばれる。物質世界を悪とみなす傾向、聖職者や秘跡の権威への懐疑、禁欲的な実践を特色とし、ローマ教会秩序に挑戦した。教皇インノケンティウス3世のもとで発動された十字軍は地域の権力地図を塗り替え、フランス王権の伸長と異端掃討を導いた。

背景と名称

アルビジョワ派は、ラングドックの都市アルビにちなむ教会側の外称である。当人たちは「善き人々」などと自称し、清貧と説教を掲げるアルビジョワ派は在地で支持を集めた。11世紀末以降、交易で潤う都市と自立的領主が並立したオクシタニアでは宗教的多様性が育った。

教義と儀礼

アルビジョワ派は、善なる霊と悪なる物質の二元論を説き、物質に依存する洗礼や聖餐の救済性を否定した。唯一の秘跡とされた「Consolamentum」は按手による霊的洗礼である。共同体は高度な禁欲を守る「Perfecti/Perfectae」と、それを支援する信徒「Credentes」に大別され、前者は断食・不殺・清貧を厳格に実践した。

用語と補足

Consolamentum後に臨終を待つ断食Enduraが語られるが、普遍的慣行とは言い切れない。史料は教会側と異端審問記録に偏り、敵対的バイアスへの配慮が必要である。

南仏社会との関係

支持は都市の商工層や一部の騎士・領主に及び、托鉢修道会以前の説教空白を埋めた。女性の役割も相対的に高く、Perfectaeが看護や説教を担った例がある。こうした広がりは、封建秩序と都市自立が交錯するラングドックの社会構造に由来した。

十字軍の発動と戦争

1208年の教皇使節殺害を契機に、翌1209年からアルビジョワ派討伐の軍事行動が始まった。初期にベジエやカルカソンヌが陥落し、シモン・ド・モンフォールが頭角を現す。攻防は20年に及び、トゥールーズ伯家と北仏諸侯、王権の関与が重なった。1244年のモンセギュール陥落は象徴的終幕で、組織的抵抗は急速に衰えた。

逸話の史実性

「彼らを皆殺しにせよ。神は見分けたまう」という言葉は『Caesarius of Heisterbach』に見えるが、適用範囲や実際性には議論がある。情念的イメージは史料批判で相対化すべきである。

政治的帰結と異端審問

1229年の条約を境に、ラングドックはフランス王権の統合下に編入され、在地貴族の自立は弱まった。他方で教会は対抗策としてドミニコ会を中心に異端審問を整備し、説教・学校・裁断を通じ秩序回復を図った。これによりアルビジョワ派の公的基盤は解体し、14世紀には痕跡的存続にとどまった。

史料と歴史学の論点

史料の核心は異端審問の供述録や反異端論である。それらは運動像を伝える一方、教会側言説によって「異端」として構成された像でもある。近年研究は、南仏の言語・経済・法慣行に即して再解釈し、弾圧史観を越えて、宗教的選好・地域政治・文化交流が交錯するダイナミクスとしてアルビジョワ派を捉え直している。