アリウス派
アリウス派は4世紀初頭のアレクサンドリアの司祭アリウスに端を発するキリスト教神学の潮流であり、子であるキリスト(ロゴス)は父なる神によって創造された被造物で、父と同一の本質(homoousios)ではないと主張した学説である。キリストの神性を認めつつも、父に従属する位格として位置づけ、「彼(子)が存在しなかった時があった」という標語に象徴される根源的従属論(サブオルディナティオ)の立場をとった。アリウス派は325年のニカイア公会議で退けられたが、その後も政治的後援や神学的再解釈を得て東方を中心に影響力を保ち、最終的には381年のコンスタンティノポリス公会議で正統信仰(ニカイア信条系)が確立する過程で衰退した。
起源と歴史的背景
アリウス派の出現は、3〜4世紀に深まったキリスト論・三位一体論争の文脈に置かれる。アリウスは主教アレクサンドロスと対立し、キリストが「生まれた」/「創造された」存在であることを強調した。背景には、唯一神性の純粋性を守る意図、聖書の知恵文学や箴言の解釈、オリゲネス学派由来の位階的宇宙観などがあった。アリウス派の教説は単純な否定ではなく、救済史の中で子の役割を保ちながら父の唯一性を護る折衷的枠組みでもあった。
教義の核心
アリウス派は、子は「意志」によって父から創造され、父と「相似」(homoiousios)ではあり得ても「同一本質」(homoousios)ではないと主張した。子は被造であるため可変であり、全き不可変性は父のみに属するという論理である。ここから、永遠生誕(父と同永遠)・共質性を唱える立場と決定的に分かれた。アリウス派は礼拝実践と救済論の整合を試みつつ、子の仲介性を強調する救済史観を示した。
政治と公会議
ニカイア公会議(325年)は「子は父と同質」と宣言し、アリウス派を退けた。しかし皇帝権力や宮廷人脈の影響下で、反ニカイア的潮流(ホモイオス派・ホモイウシオス派・アノモイオス派など)が台頭し、359年のリミニ・セレウキア両会議では曖昧式の和議が形成された時期もある。エジプトや小アジアでは主教座の交替と流刑が繰り返され、教会政治の複雑な力学の中でアリウス派は長く議場に残った。
アタナシウス派との論争
アレクサンドリアのアタナシウスは、子の完全神性と救済の実在性を守るため、homoousiosの語を堅持した。彼は礼拝の対象であるキリストが被造なら救いは揺らぐと論じ、正統理解の神学的枠を整備した。カッパドキアの教父たちは「本質(ousia)」と「位格(hypostasis)」の区別を精緻化し、三位一体の同一本質・区別された位格という定式化に寄与した。こうしてアリウス派は神学的に包囲されていった。
異民族世界への拡大
アリウス派は帝国内で衰退後も、ウルフィラ(ウルフィラス)の宣教によりゴート人社会に広がり、ゲルマン諸王国(ヴァンダル、東ゴート、西ゴートなど)の宮廷宗教として定着した。西ゴートは589年に公会議でニカイア派へ転回し、北アフリカやイタリアでも政変とともにアリウス派は後退した。民族移動期の王権と教会の関係は、教義選択が政治秩序に直結することを示す歴史例である。
用語と諸潮流の区別
アリウス派周辺では、子を父に「相似」とするホモイウシオス派、相似だが本質語を避けるホモイオス派、子を父と「非相似」とするアノモイオス派などが併存した。これらは「同質」語をめぐる受容の差異と、聖書語の厳守・哲学語彙の採否という姿勢の違いを反映する。術語は似て非なるため、
- homoousios=同一本質
- homoiousios=相似本質
- homoios=相似(本質語回避)
- anomoios=非相似
の区別を押さえる必要がある。
礼拝・救済への含意
アリウス派の枠組みでは、礼拝対象である子の神性の位階化が避けがたい。これに対しニカイア的立場は、礼拝の実践と救済の普遍性を担保するため、父・子・聖霊の同一本質を確保した。公会議は単なる学派間の争いではなく、共同体の祈り・洗礼式文・聖書朗読の統一性をかけた規範整備であった。
史料と研究上の留意
アリウス派に関する一次史料の多くは対立者による反駁文書に保存されるため、受け手には偏向の可能性を読む批判的姿勢が求められる。教父史料(アタナシウス、ソクラテス、ソゾメノス、テオドレトス)や碑文・典礼文献を突き合わせ、地域差・時代差を踏まえた再構成が重要である。神学・政治・社会史を横断する統合的視角が、アリウス派理解を深化させる鍵である。
歴史的意義
アリウス派をめぐる論争は、三位一体論の精密化、信条の成立、皇帝と教会の関係規範の確立を促した。語彙の厳密な定義、典礼と教義の往還、周縁世界への伝播という三つの力学が、後代のキリスト教世界像を形づくったのである。